巻頭言
書店売りが実現
和田光征
WADA KOHSEI
1976年4月に「季刊オーディオアクセサリー」創刊号が誕生。その後の人事での問題もクリアーして私は「オーディオ専科」ともども編集長を務めることとなり、オーディオアクセサリー誌第2号を構想していた。
そんな折、オーディオテクニカさんのコンペが相模原GCであって参加した。都内への帰路、「無線と実験」編集長大泉さんの車に乗せて頂いた。後部座席に「FMファン」梅原さんと評論家の江川三郎先生がいて、江川先生は出発前からずっと喋っていた。自動車に敷いてあるゴムシートがターンテーブルシートとしていいと、自分の実験談である。
かれこれ30分余りたった頃、私は「江川さん、そのターンテーブルシートを一万枚売ってあげましょうか」と言った。「あんたは誰だ?」と言う先生に顔を向けながら私は、「音元出版の和田です」と言った。先生は「あんたが和田さんなのか、そうなのか」とすっかり上機嫌になった。当然ながら創刊号をご覧になっていたのである。
私も評論家の先生方を選ぶのに苦労していたが、小社の顧問である斉藤宏嗣先生を筆頭に岩崎千明先生、若林駿介先生、石田善之先生、神崎一雄先生、福田雅光先生が執筆陣に加わった。江川先生はメーカーの商品を壊して実験をするとのことで要注意人物とされ、斉藤先生からの推挙が無かったのだ。
しかしこうして話を聞いていると、この人こそアマチュアリズムを持った人だなと思った。ただ、商品テストは難しいであろう。車が渋谷に着いて別れ際、私は江川先生を呼び止めた。「先生、AA誌で8ページ差し上げますから、自由に遊んでください。メーカー等のクレームには私が対応しますから」。「8ページもくれるのか、和田さん、本当にいいのか?」と先生は興奮気味で大喜びである。
そして後日、江川先生と私との初めての打ち合わせ。「電気街に行って各ブランドのスピーカーケーブルを10m、7m、5m、それぞれ用意して……」「スピーカーケーブルの試聴ですか」「そうだよ」。いよいよ面白くなってきた。さっそく編集部でスピーカーケーブルを買って来た。「ブラインドテストをやるんだ」と先生。雨傘にレースを囲むようにつるして、どのメーカーのケーブルか見えない状態にして一本一本試聴していった。
他の先生方もいろいろな企画を持ち寄り、テストレポートを量産していった。オーディオアクセサリー誌が目指す方向が完全に決まって来た。中でも江川先生のテストページは圧倒的な人気を博し、これが要因となって1976年7月15日に発行した第2号は、完売したのだった。私は江川先生と出会ったことを喜んだ。
1号、2号と好評だったオーディオアクセサリー誌だが、販売を委託していたオーディオ店の店頭に在庫が積み上がるようになり、私は書店販売の取次を訪ねた。ほとんど門前払いでまた明日があると思っている時に、社に一人の紳士が訪ねて来た。名刺には取次 東販・仕入部 星野次長と記してあった。わざわざ訪れてくださった上「東販で独占販売させて欲しい」と言われ、私は「よろしくお願いします」と頭を下げた。大切な時にまた恩人が現れ、書店売りが実現したのである。