豪華ゲストも参加した集大成的アルバム
待望の新作「マイ・フェイヴァリット・シングス」を辛島文雄自身が語る
ジャズピアニスト、辛島文雄の待望のニューアルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス』が発売となった。病気と闘いながら制作した本作は、自身「最高のアルバムになった」と語るほどの仕上がりとなっている。本作の制作に関して、今回、特別にインタビューを行うことができたので、辛島文雄の生の声をお届けしたい。
――リーダーアルバム「マイ・フェイヴァリット・シングス」の発売、おめでとうございます。リーダー作としては何作目にあたりますか?
辛島文雄(以下、辛島) リーダーアルバムとしては30枚を超えたと思います。
――そうですか。今回のアルバムを作ったきっかけと意図をお聞かせください。
辛島 僕は、昨年病気にかかってしまい自分でリーダーアルバムを作るなんてことは考えてもいなかったんです。去年の暮れにドラムの高橋信之介君が、13年間いたアメリカから帰ってきたのがひとつのきっかけです。
ニューヨークの香りがプンプンするいいドラマーになって帰ってきたんですね。彼とは過去3年もツアーやっていたのに、1枚もCDを残していなかった。彼からそのことを告げられると僕もいま作らないと、という感じになってスタートしました。
高橋信之介と一緒なので、最初はトリオくらいで、って考えていました。それが、最初の抗癌剤を打っている真っ最中の時の話。本当に毎日体調が悪い。あんまり考えられないし、企画を練っても浮かんでこないし、とりあえず高橋信之介と井上陽介の3人で最初はやろうということになったんです。
でもスケジュールを聞いてみたら陽ちゃんが1日しかだめだった。じゃあ、今僕とやっているベースの楠井五月を使おうか…。その話が出たとたん、2ベースというのもあるよなって、思いました。
2ベースを入れてトリオというのなんだから、じゃあ管楽器も入れようということになって、池田 篤さんと岡崎正典さん、それだったら、岡崎好朗さんもということになって、セクステットで、曲によっては2ベースなので7人編成もあるということになりました。
だから曲目も大まかなイメージで、2ベースでこんな感じでとか。それで企画が進んで来たら、じゃあ、いままでレコーディングしたことのない曲を中心にということになった。
なおかつ、僕がその時代その時代で好きだった曲、「ジニーン」なんて曲は僕が16歳の時に好きだった曲だから…。唯一「マイ・フェイヴァリット・シングス」は最初から演ろうと思っていた。
そういうことをプロデューサーと詰めて行って、スケジュールを調整してもらったら、ベースの井上陽介が1日しかだめだったので、2人が入ってもおかしくない曲をまず選択をして。
それが「マイ・フェイヴァリット・シングス」と「サトル・ネプチューン」という曲。さらに池田 篤ちゃんが来られる日が、これも1日しかなくて、全員が揃う日が少ない。だからベース2人の日は池田 篤ちゃんが入っていないんです。
ベースが楠井五月の時に池田 篤が入って、セクステットでやっています。まあ、一応この曲をやろうということだけ決めて、あとはもうヘッドアレンジでした。僕は手が副作用で痺れていたけど、とりあえずやり始めました(笑)。
元気なときは自分のアルバムを作る意気込みがあるじゃない?けど、今はそれがない。演るのは演るんだけど、力を入れようにも入らない。自分で、ああしよう、こうしようと構成するも頭が働かない。特にアンサンブルは書ける状態じゃなかったから、池田篤ちゃんと岡崎正典に任せて…まあ、彼らにとっては断れない状況だね。それでレコーディングが始まった。
でも不思議なことにピアノの前に座ってしばらくすると、パワーが出てきた。ホントに不思議なこと。演り出すとアイディアも湧いてきて、“こうしよう、ああしよう”と。
今回のメンバーは日本の超一流じゃない。だから、全幅の信頼がおけるんですよ。彼らが演ることとアイディアにね。何の言葉もなく、音を出したら、こうしたいんだな、ってお互いに分かるわけ。阿吽の呼吸という感じかな。ああいうレコーディングは初めてだった。
今までは「違う」「そうじゃない」「こうしろ」みたいに指示をしきりにしていました。「ベースはこう弾くんだ」とかね。今回は、そういうことはまったくゼロ。彼らのセンスと人間性を全部信じてレコーディングをしていったんです。
――身をゆだねた感じですか。
辛島 まったくその通り。そうしたら今まで感じたことのないような一体感と阿吽の呼吸が生まれました。バックにしてもソロにしても。だから僕は常々かっこよく気取って、「死ぬ前の演奏がベストなんだ」って言い続けてきた。アルバムも奇跡が起これば、また作ることができるだろうけど、これからは作れると思っていないので、今は最後になって自分のベストができたって、すごく喜んでいます(笑)。
――リーダーアルバム「マイ・フェイヴァリット・シングス」の発売、おめでとうございます。リーダー作としては何作目にあたりますか?
辛島文雄(以下、辛島) リーダーアルバムとしては30枚を超えたと思います。
――そうですか。今回のアルバムを作ったきっかけと意図をお聞かせください。
辛島 僕は、昨年病気にかかってしまい自分でリーダーアルバムを作るなんてことは考えてもいなかったんです。去年の暮れにドラムの高橋信之介君が、13年間いたアメリカから帰ってきたのがひとつのきっかけです。
ニューヨークの香りがプンプンするいいドラマーになって帰ってきたんですね。彼とは過去3年もツアーやっていたのに、1枚もCDを残していなかった。彼からそのことを告げられると僕もいま作らないと、という感じになってスタートしました。
高橋信之介と一緒なので、最初はトリオくらいで、って考えていました。それが、最初の抗癌剤を打っている真っ最中の時の話。本当に毎日体調が悪い。あんまり考えられないし、企画を練っても浮かんでこないし、とりあえず高橋信之介と井上陽介の3人で最初はやろうということになったんです。
でもスケジュールを聞いてみたら陽ちゃんが1日しかだめだった。じゃあ、今僕とやっているベースの楠井五月を使おうか…。その話が出たとたん、2ベースというのもあるよなって、思いました。
2ベースを入れてトリオというのなんだから、じゃあ管楽器も入れようということになって、池田 篤さんと岡崎正典さん、それだったら、岡崎好朗さんもということになって、セクステットで、曲によっては2ベースなので7人編成もあるということになりました。
だから曲目も大まかなイメージで、2ベースでこんな感じでとか。それで企画が進んで来たら、じゃあ、いままでレコーディングしたことのない曲を中心にということになった。
なおかつ、僕がその時代その時代で好きだった曲、「ジニーン」なんて曲は僕が16歳の時に好きだった曲だから…。唯一「マイ・フェイヴァリット・シングス」は最初から演ろうと思っていた。
そういうことをプロデューサーと詰めて行って、スケジュールを調整してもらったら、ベースの井上陽介が1日しかだめだったので、2人が入ってもおかしくない曲をまず選択をして。
それが「マイ・フェイヴァリット・シングス」と「サトル・ネプチューン」という曲。さらに池田 篤ちゃんが来られる日が、これも1日しかなくて、全員が揃う日が少ない。だからベース2人の日は池田 篤ちゃんが入っていないんです。
ベースが楠井五月の時に池田 篤が入って、セクステットでやっています。まあ、一応この曲をやろうということだけ決めて、あとはもうヘッドアレンジでした。僕は手が副作用で痺れていたけど、とりあえずやり始めました(笑)。
元気なときは自分のアルバムを作る意気込みがあるじゃない?けど、今はそれがない。演るのは演るんだけど、力を入れようにも入らない。自分で、ああしよう、こうしようと構成するも頭が働かない。特にアンサンブルは書ける状態じゃなかったから、池田篤ちゃんと岡崎正典に任せて…まあ、彼らにとっては断れない状況だね。それでレコーディングが始まった。
でも不思議なことにピアノの前に座ってしばらくすると、パワーが出てきた。ホントに不思議なこと。演り出すとアイディアも湧いてきて、“こうしよう、ああしよう”と。
今回のメンバーは日本の超一流じゃない。だから、全幅の信頼がおけるんですよ。彼らが演ることとアイディアにね。何の言葉もなく、音を出したら、こうしたいんだな、ってお互いに分かるわけ。阿吽の呼吸という感じかな。ああいうレコーディングは初めてだった。
今までは「違う」「そうじゃない」「こうしろ」みたいに指示をしきりにしていました。「ベースはこう弾くんだ」とかね。今回は、そういうことはまったくゼロ。彼らのセンスと人間性を全部信じてレコーディングをしていったんです。
――身をゆだねた感じですか。
辛島 まったくその通り。そうしたら今まで感じたことのないような一体感と阿吽の呼吸が生まれました。バックにしてもソロにしても。だから僕は常々かっこよく気取って、「死ぬ前の演奏がベストなんだ」って言い続けてきた。アルバムも奇跡が起これば、また作ることができるだろうけど、これからは作れると思っていないので、今は最後になって自分のベストができたって、すごく喜んでいます(笑)。