豪華ゲストも参加した集大成的アルバム
待望の新作「マイ・フェイヴァリット・シングス」を辛島文雄自身が語る
――それは辛島さんが、今までやってきたことがあったからでしょう。
辛島 そう思っていただけると、僕としては嬉しい。もう感謝しかないです。以前冗談で、「みんな後悔と感謝と懺悔の日々だよ」って言っていたけど(笑)。もう一言でいうと、感謝ばかりですよ。病気したことによって、僕が知らなかった世界をみなさんが教えてくれた。そのことに対して感謝。話は湿っぽく哲学的になるけど、でも正直、そういうことだと思います。
――話は変わりますが、収録された曲は、みんな強い想いのあるものばかりでしょうが、その中でもこれぞという曲はありますか?
辛島 やっぱり「ジニーン」ですね。16歳の時にキャノンボール・アダレイ・クインテットで初めて聴いた曲です。バリー・ハウスという人がピアノを弾いている。まあ、あれが好きでね。
僕はあのころソニー・ロリンズとキャノンボール・アダレイが好きで、あのころはLPも買えないからEP盤、33回転のミニアルバムで、400円くらいだったかな、それを買ってずいぶん聴きました。地元にはジャズ喫茶もなくて。やはり大学生になってからですかね。いろんなことを勉強したのは。まさに、青春ですね。
聴いていた「ジニーン」にはピアノソロはない。3人管がいて、ベースがソロをして、ピアノまでソロをするとただの普通のジャズになっちゃう。だから収録では最初はフェードアウトのつもりでしたが、最後のテーマが終わってバンプって感じにして、僕がちょっとピアノを弾くからという風に。こんなアレンジもピアノを弾きながらやっています。
最初はこの曲の中でソロをやるつもりだっただけど、演っちゃうと月並みな曲になっちゃう。そういう心遣いやアイディアは端々にあるんですよ、実はね…。「サトル・ネプチューン」や「ソー・ニア、ソー・ファー」とかね。まあ、奇跡みたいなのもんですよ。メンバーのみんなの神業ですよ。そういうのが自然と伝わるのが、奇跡だと思います。
――先日、記念のライヴがピットインでありましたが、本当に素晴らしい演奏でした。ご自身の感想はどうでしょうか? ドラマーのジョージ大塚さんとのステージは、リハーサルもなかったですよね(笑)
辛島 まあ、あれがジャズの醍醐味なんですよ。人にもよりますけどね。カッチリリハーサルをして、その通りに進んで行かないとすまない人もいますし、音がこうじゃないとすまない人。もうありとあらゆる人はいるからね。
だから、僕はメンバーがなんで日本一かと言ったかというと、そういうのを全部心で感じ取るから。いちいち指示とか、相談しなくても。でもそれはね40年間、さんざんやってきたから。それの集大成。お前、こう弾けとか叩かけとか。シンバルの音まで指定していた時代もあるからね。今は僕が馬鹿だったとおもうよ(笑)。
――辛島さんにとってジャズとは?
辛島 やっぱり大学生になって、進路決めないと食っていけないじゃない。僕たちの頃は学生運動が非常に盛んでした。それでジャズピアニストなろうとしたきっかけは、僕も仲間が学生運動家が多くて、そうしたら京都大学で紛争があって、中核、核マルとか。
僕たちは反帝学評と言う派閥に友達が多くて、50人くらいいたかな。機動隊4000人囲んでいるところに、突撃するというわけ。でかいガタイのやつにほそっこい50人がね。それが他のセクトに対する見栄なんだよね。
社会に出て組織の中で働くということは、そういう気に添わない上司の命令に従わなきゃならない世界かな、と思ったわけ。結果が分かっているのにね…。それは僕には出来んなと思ったんです。
僕は本当はドラマーになりたかった。でもドラムも組織の中の一人になる。全部可能性を削って行ったら、ピアノしか残らなかった。小学校の時からピアノは弾けたし、それから本格的にジャズピアノを勉強しましよう、ということでプロを目指したんです。
僕にとってジャズは、生業でもあるし趣味でもあるし。他になりたいものがなかったしね。僕の人生の全てになってしまうかなぁ。ひとつの答えはないですけど。
とにかくピアノを弾けるようにしてくれた父親には感謝ですね。ジャズがアメリカで生まれて、興味を持って、ジャズで一生過ごすことができた。特にエルヴィン・ジョーンズとか、ジャズに対する根本的な考え方とか、叩き込まれたし…。
僕は、みんな感謝しているし、アメリカのジャズがあったことで、興味を持って一生過ごしたことに感謝ですね。どうしてもそこに行っちゃいます。