<連載>藤岡誠のオーディオワンショット
藤岡誠が語るオーディオ業界の今と昔。ブランド、そしてメディアの変遷を考える
藤岡誠氏が、自身の推薦するオーディオ機器、関連アクセサリー、あるいはコンポーネントの組合せ。またある時は新技術や様々な話題など、毎回自由なテーマで原稿を進めて行く「藤岡誠のオーディオ・ワンショット」。今回は、オーディオメーカーと、メディアの変遷を辿っていく。
■“御三家”が君臨したオーディオ全盛期
日本のオーディオ業界が名実ともに本格的にスタートしたのは東京オリンピックの翌年1965年(昭和40年)頃からだと私は認識している。モノーラルがステレオになり、真空管全盛時代が終焉を迎え半導体方式が主流になり始めた時代である。
当時のオーディオメーカーはサンスイ(山水)、トリオ、パイオニアの3社が急成長。いわば“御三家”として君臨。この御三家は“サン・トリ・パイ”と称せられたものだ。勿論、活況を呈したのはこの御三家ばかりではなく、例えばラックス、アカイ、ティアックなども同様であったことはいうまでもない。とにかく“造れば売れる時代”がスタートしていたのである。そしてこの時代以降、業界全体の急成長を背景にオーディオ専門誌や海外の有名オーディオ機器の輸入業社が続々と誕生。オーディオファイルも増加の一途を辿っていた。
この頃、私は大学在学中だったが幾つもの専門誌に原稿を寄せていた。そうした環境下で私は素晴らしい人たちと出会いがあった。鮮明な記憶は、日本の敗戦後の疲弊した状況下で起業し、組織を立ち上げたオーディオメーカーや輸入業者の創立者の皆さんたちの笑顔だ。特にサン・トリ・パイの創業者の皆さんは深く記憶に残っている。サンスイの菊池さんは家が近所だったこともあって若造の私にも声を掛けてくれた。トリオの春日さん兄弟と中野さん、パイオニアの松本さんとご長男の自信に満ちた表情も懐かしい思い出だ。
その後の皆さんは社長から会長になり、会長が相談役になり、メーカーによっては、長男が、あるいは創業当時の番頭さんが社業を引き継ぐなど様々な流れがあったものの業界の好業績は続いた。
しかし、前記したような創業者や後継者たちの“顔”が見えなくなって久しい。時の移ろいの中で必然の結果であることはいうまでもないが、最近は顔ばかりでなく企業/組織としてのID=アイデンティティの一貫性が希薄になったように感じている。かつてはとても安定だった業界を取り巻く環境が、音楽メディアの激しい変化によって内外共に大きく変わってきたからだ。
■“御三家”が君臨したオーディオ全盛期
日本のオーディオ業界が名実ともに本格的にスタートしたのは東京オリンピックの翌年1965年(昭和40年)頃からだと私は認識している。モノーラルがステレオになり、真空管全盛時代が終焉を迎え半導体方式が主流になり始めた時代である。
当時のオーディオメーカーはサンスイ(山水)、トリオ、パイオニアの3社が急成長。いわば“御三家”として君臨。この御三家は“サン・トリ・パイ”と称せられたものだ。勿論、活況を呈したのはこの御三家ばかりではなく、例えばラックス、アカイ、ティアックなども同様であったことはいうまでもない。とにかく“造れば売れる時代”がスタートしていたのである。そしてこの時代以降、業界全体の急成長を背景にオーディオ専門誌や海外の有名オーディオ機器の輸入業社が続々と誕生。オーディオファイルも増加の一途を辿っていた。
この頃、私は大学在学中だったが幾つもの専門誌に原稿を寄せていた。そうした環境下で私は素晴らしい人たちと出会いがあった。鮮明な記憶は、日本の敗戦後の疲弊した状況下で起業し、組織を立ち上げたオーディオメーカーや輸入業者の創立者の皆さんたちの笑顔だ。特にサン・トリ・パイの創業者の皆さんは深く記憶に残っている。サンスイの菊池さんは家が近所だったこともあって若造の私にも声を掛けてくれた。トリオの春日さん兄弟と中野さん、パイオニアの松本さんとご長男の自信に満ちた表情も懐かしい思い出だ。
その後の皆さんは社長から会長になり、会長が相談役になり、メーカーによっては、長男が、あるいは創業当時の番頭さんが社業を引き継ぐなど様々な流れがあったものの業界の好業績は続いた。
しかし、前記したような創業者や後継者たちの“顔”が見えなくなって久しい。時の移ろいの中で必然の結果であることはいうまでもないが、最近は顔ばかりでなく企業/組織としてのID=アイデンティティの一貫性が希薄になったように感じている。かつてはとても安定だった業界を取り巻く環境が、音楽メディアの激しい変化によって内外共に大きく変わってきたからだ。