巻頭言
上達して、いつか…
和田光征
WADA KOHSEI
本誌1月号に続く、私の若い頃の物語。電子新聞社に入社した私が配属されたのは、「ラジオテレビ産業」という業界雑誌の編集部である。白物家電は対象でないいわゆるブラウングッズ専門の雑誌で、総ページ数は130ページほどだった。編集長の村田さんは多摩美術大学出身で、当時40歳くらいだった。
新聞チームとは完全に分離され、村田氏が社長と打ち合わせをしながら雑誌づくりをすすめていた。私は23歳で素人、ともかく村田氏の編集技術を盗もうと、なんと言われても“ハイッ”と返辞をし、従順に対応した。
前にも触れた「思索ノオト」にはその頃もよく書き込んでいて、多い時は一晩で10ページ位もさらさらと書き綴っていた。高校の作文の時間なども用紙の表裏にぎっしりと書いたものだが、それは日常風景ではなく創作の物語だった。
また絵を描くことは小学生になる前から得意で、1年生の春、村の青年たち4、5人に肩車で運ばれ家に連れて行かれて馬を描くよう頼まれ、大きな白い紙に走る馬をさらさらと描いたこともあった。おかげで小学校・中学校で絵を描けばいつも金賞をとっていた。中学3年生のスケッチ大会では一次審査を私がやり、そこから美術の先生が選んで金銀銅賞を決めていったものである。
そんな私の特性を村田さんも認めてくれて、編集の仕事では早いうちに原稿書きやレイアウト作成を任されるようになった。彼は午後3時頃に出かけるとそのまま帰らないということが多くなり、そのうち出張校正を私がひとりでやるようになった。出張校正とは、印刷所に出向いてする校正のこと。印刷用の版を作成する直前での最終校正だ。
18時頃に校正所に電話がかかってきて、「どう?」と言う。私は、「もうすぐ終わりますので、お帰り下さい」と言うが、結果23時近くになることもたびたびあった。
ある朝村田さんは社長に呼ばれ、机の前に立った。「何でしょうか」と返す村田さんに、「何だこれは」と社長は声を荒げる。刷り上がった雑誌に校正ミスがあったのだ。「…ああ、これは和田くんだ…」と言って村田さんは、私に大声で「何てことしてくれたんだ」と怒った。
私は「申し訳ありません」と詫びたが、一方で『出張校正にいつもいない癖に』と内心不合理を感じていた。社長は「性のない奴だ」と言った。その時私は、信用されていない空気を感じ、上達したらいつか別の会社に行こうと思った。
村田さんがしょっちゅう15時頃から消えるようになったのは、要するにアルバイトをやっていたからである。手伝わされたことで私にもわかった。メーカーの若い人達10名ほどに、マーケットリサーチの結果を話していた。私もその資料を配りながら、マーケットリサーチというものに関心を持っていた。
その夜、村田さんから晩飯をご馳走になり、アルバイトが認められていて、給料が安い分こうして稼いでいいという仕組みを教えられた。そうなのかと思いながら私は不可解だった。そして、会社内の新聞チーム、といっても4人だったが、彼らが圧倒的な力を持っていることがわかった。(以下、次号)