巻頭言
すべては流るる方向に流るる
和田光征
WADA KOHSEI
1972年に、当社の社名が「電子新聞社」から「音元出版」に変わったエピソードを述べておきたい。
「私は出版社へ入りたくて当社に来ました。社長も今となっては同じ思いではないでしょうか。出版社として再出発をしましょう」と訴えると岩間社長は、「…分かった、」と受け入れて下さったのだ。1972年、当社は音元出版としてオーディオ専科の誕生と共に新たな道を歩き出した。社屋も湯島から外神田に移転した。
1975年に、音元出版創業30周年記念パーティが東京プリンスホテルで開催された。記念行事として「オーディオ銘機賞」の受賞内容が発表され、アキュフェーズのC200S、P300Sが販売側審査委員長のテレオン鈴木七之丞氏、オーディオ評論家側審査委員長の浅野勇氏から授与された。アキュフェーズが今日まで金賞を連続で受賞しているのは驚きである。
記念パーティでは岩間社長が「和田光征が10年後に社長になる」と宣言、私は「若輩ですがよろしくお願いします」と大声で挨拶して万来の拍手を頂戴したのだった。その時私は30歳で取締役になったばかりだった。
1976年4月に「オーディオアクセサリー」誌が誕生した。岩間社長と私の思惑はこのあたりから多少のズレが出始めたのだった。120頁位の規模の雑誌でいいとの社長の思いとは別に、私はオーディオ専門誌でナンバーワンになる思いを持って、可能か否かを個人的に徹底調査していた。出版社になったのだから後塵を拝するのではなく、トップランナーになるべきだと考えていた私は、32歳になっていた。
「オーディオアクセサリー」誌の提案は社長からあった。私は、オーディオが普及率50%であったことを考えればアクセサリー等でのクオリティアップを訴求するのはマーケティング的に正しいと考えた。同時にナンバーワンになるためには、強い雑誌と同等のページ数でないと負けてしまう、最低でも先行誌の6割以上の厚みが無ければ勝つ事が出来ないと確信した。
そして、120頁で良いと主張する社長の意志に幾度となく議論を持ちかけ、結局250頁の「オーディオアクセサリー」誌を造りあげた。書店販売できなかったので、1万部をオーディオ店さんにほぼ全数お買い上げ頂き、その70%は私が販売した。しかし岩間社長にすれば、原価がふくらむ私のやり方に危機感を募らせたのであろう。人事の異動が発令され、私はクビになってしまった。そして一週間ほどで事件が起きた。
あの美しくもの静かな社長夫人が社長の前に立ち大きな声をあげた。「和田さんを辞めさせることに反対です。どうしてもと言うなら私も一緒に辞めます!「会社がどうなるか分からない時に入社して、本当に一人で頑張ってくれた恩人を辞めさせるなど許さない」。
社長は全く手の打てない状況になって、私の方に顔を向け、「じゃあ、どうすればいいんだ!」と言った。「私に任せれば、必ず成功させます。オーディオ専科にしてもまだこれからです。私がやれます」とはっきりと申し上げたのだった。社長も「そこまで言うんならやってみろ!」と言って部屋から出て行った。私は社長夫人に心から感謝したし、永遠にしっかりと守って行くと心に誓った。
「オーディオアクセサリー」誌第2号は、江川三郎氏の企画が圧倒的人気を博し、あっという間に完売したのだった。