巻頭言
業界隆盛の80年代
和田光征
WADA KOHSEI
1978年9月、創刊30周年を記念して「オーディオ専科」の臨時増刊を発行すると共にオーディオ銘機賞の第一回発表を行った。オーディオ評論家と、製品を最前線で販売するオーディオ専門店とが各9名ずつ審査員を務めたことで注目を浴びた。オーディオ評論家側審査委員長が浅野勇氏、オーディオ専門店側審査委員長がテレオン社長鈴木七之丞氏で、話題を呼んだ。今年は10月12日の審査会で40周年を迎え、名実ともに最高権威として揺るぎないポジションを構築している。
1980年、私は「謝恩読者大会」を企画した。「雑誌からは音が出ない。ならば体験して頂こう」ということである。「オーディオアクセサリー」誌が順調に推移していて、読者にお返しをすべきだと思っていたからだ。
秋葉原ラジ館で催した第1回大会は、十分に集客できなかった。そこで2回めはイベントの少ない地方に目をつけ群馬で実施した。まず「オーディオ専科」で県下のオーディオ店を取材、その際イベントの主旨を説明しチケットをプレゼントする。数店で行った結果、200余名が動員できたのだった。さらにビクターの前橋工場にも声をかけ、NHK、民放、新聞社とマスコミにも足を運び、大広報活動を展開した訳である。これらが見事に功を奏し、新聞に記事が出、NHKでは朝のニュースで告知して頂いた。江川三郎先生のアナログ、斉藤宏嗣先生のデジタルで公演を展開し、終了後にはメーカー提供のグッズや商品などをプレゼントし大好評だった。メーカーの皆さんも手弁当で一泊してお手伝い頂き、単に小社のイベントではなく、「群馬大会」となって大好評を頂戴した。このやり方を「前橋方式」として以降の大会に踏襲し、次々に大成功を収めていったのである。
謝恩読者大会は10年間で10万人のオーディオマニアが参加した。40都道府県を回り、年4回開催で自前で予算を組み運営したので、総額2億円近い投資だったがやり遂げた。まさに「業界の建設的な発展に寄与する」社是を体現したのだった。中でも私の出身、大分県ではOBSや大分合同新聞社に全面的に支援頂いて500人を超えるマニアが集まり、今でも語り草になっている。現在各都市でイベントが催されているが、やはり“継続は力なり”である。今、オーディオ装置で音楽を聴きたいお客様が多いと言われている。答えてあげたいものである。
大会が始まる午前中に私はご販売店にお集まり頂き「音元ミーティング」を開き、当時業界から大好評を頂いていた「四つの提言」、つまりニューマニア宣言、オーディオ着こなし論、デザイン革命、ビジュアル三原則、を説明し、次なる需要創造への指針として賛辞を頂いた。この四つの提言から誕生したのが、ミニコンポであり、パイオニアの「プライベート」が先陣を切り新しいマーケットが広がっていった。このタイミングでさらに「フューチャーフォーラム」をスタートさせた。国内主要メーカーの幹部が出席して年3回フォーラムを開催し、「ニューマーケットの創造」「利益ある商売」「物品税還付」の業界コンセンサス作りにも多大な役割を演じた。このニューマーケットの創造によって「ハイコンポ」で業界の救世主となった。