【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち
第16回:渡辺貞夫さんが語る「ピットイン」とジャズに生きた日々<前編>
ステージに飛び入りしたのがきっかけで
サキソフォンに転向することになった
佐藤:サキソフォンはどういうことから始まったんですか。
渡辺:月に1回ぐらい読売ホールでジャズコンサートがあって、それ見たさに上京するわけです。終わると今度は、新橋の「フロリダ」というダンスホールに行く。いとこがボーイをやっていたので、隅っこでブルーコーツとかを聴かせてもらった。見ているとサキソフォン・セクションがやけにかっこいい。あの音に憧れましたね。それでまた父親にしつこくねだって、神田でタナベのサキソフォンを2万4000円で買いました。
佐藤:やはりずいぶん高価でしたね。
渡辺:時代は朝鮮戦争の最中で、古い電線を1キロ300円ぐらいで廃品回収業者が買ってくれましてね。毎日かき集めては元手を作って、足りない分は父親に出してもらいました。
佐藤:やがて高校を卒業して東京に出てきます。
渡辺:しばらくクラリネットを演奏していましたね。その仕事が多かったので。銀座の松坂屋の地下にあったダンスホールの「オアシス」や銀座のキャバレーとかね。
佐藤:すぐにサキソフォンに転向したと思っていました。
渡辺:あるきっかけがあったんですね。いまの東京ミッドタウンの近くに米軍キャンプがあって、そこで仕事をしていたとき、下宿していた世田谷の三宿から歩いて通っていました。その途中、渋谷の道玄坂に「フォリナス」という進駐軍に接収されていたクラブがあって、そこで松本英彦さんたちがジャムセッションを毎晩やっていた。それを窓際で聴いて、歌いながら三宿まで帰るというのが日課でした。ある日、たまたま知っている曲をやっていたんで、我慢できなくなってクラリネットをつなげてステージに飛び入りしちゃった。それこそ『ブルースの誕生』と同じ。終わったらすぐに、ミュージシャンの一人から「これからオクテット(八重奏団)を作るから、もしサキソフォンができるなら入らないか」と誘われて、そこからサキソフォンに転向しました。
ところが譜面がろくに読めないのに、どういうわけかファースト・アルトをやらされた。もっとうまい人がいたのに。「あの坊やはだめだな」とかメンバーからちくちく言われて「2週間待ってください」とお願いして、自宅で猛練習してものにしましたよ。そうしたら、そのバンドで箱根にある富士屋ホテル専属の仕事がきて、1年ぐらい住み込みで演奏していました。
佐藤:富士屋ホテルといえば、政界や財界の要人が利用する由緒あるホテルですよね。
秋吉敏子さんのグループに誘われたのが転機に
これでなんとか食べていけるかな、と思えた
52年にコージー・カルテットに参加
秋吉さんの替わりにリーダーとなった
渡辺:やがて東京に戻ってから、ジャフロというグループを作りました。ジャズとアフロの合体という意味で、アール・ボスティックの「フラミンゴ」がヒットした時代ということもあって、リズム&ブルースをやっていました。
佐藤:それがまだ19歳ですからね。この後に秋吉敏子さんのグループに加わるんですか。
渡辺:横浜に「ハーレム」というクラブがあって、ジャフロで出ていました。お客さんはジルバを踊る。演奏しながら歩くとみんなが後から付いてきてね。向かいに「バンドボックス」というクラブがやっぱりあって、そこまで行って戻ってきたこともあった。「バンドボックス」には毎週末に、駐留していたハンプトン・ホーズやウォルター・ベントン、ハル・スタインがジャムセッションをやっていたんです。そこで秋吉さんもピアノを弾いていた。秋吉さんは、これから自分のグループを作るというので声をかけてもらって、52年にコージー・カルテットができたんです。
佐藤:どんな気分でしたか。
渡辺:当時日本を代表するモダン・ジャズ・ピアニストといえば秋吉さんと守安祥太郎のふたりだったんですね。秋吉さんのグループに入れるということは、これでなんとか飯を食っていけるのかなと思いました。