哲学者と宗教学者の対談が炸裂!
黒崎政男×島田裕巳のオーディオ哲学宗教談義 Season 2「存在とはメンテナンスである」<第2回>
マーラー2番を最新DSD録音と古典的演奏で聴く
黒崎 さて、最後にコンセルトヘボウをガッティが指揮したマーラーの交響曲2番の冒頭を用意しました。
島田 これはいつのマスタリング?
黒崎 16年か17年か。いずれにしても最近ですね。
そしてもうひとつはオットー・クレンペラーが1960年代頭に英コロンビアに録音したマーラーの2番。私は5種類くらい同じ演奏のレコードを持っていて。ついにほぼオリジナル盤を手に入れたんです。本当のオリジナル盤は、先日e-bayで見ていたら9万6千円で落札されていました。分かっている人が多数いるということです。クレンペラーはすごいんですよね。とにかく、今回はこの「ほぼオリジナル」盤をかけます。
これら2枚を聴き比べましょう。
〜ガッティ(指揮)、コンセルトへボウ管弦楽団『マーラー:交響曲第2番』DSDファイルを聴く〜
黒崎 これは録音と再生ということで言えば、現代のものでは最高水準じゃないかと思います。ホールの感じといい。システムも含めてですけれど。
では、1960年代に録音されたこのクレンペラー&フィルハーモニアのレコードとの比較をしてみましょう。演奏者も、メディアも異なるのでこの比較が正しいかどうかはともかくとして……。
〜クレンペラー(指揮)、フィルハーモニア管弦楽団『マーラー:交響曲第2番』アナログLPを聴く〜
黒崎 どうでしょう。
島田 もう一度DSD聴いて見ましょうよ。
黒崎 いいですよ。
〜ガッティ(指揮)、コンセルトへボウ管弦楽団『マーラー:交響曲第2番』DSDファイルを再び聴く〜
黒崎 これはかなり面白い比較だと思うんですよ。
島田 全然違う。
黒崎 ガッティの低域の捉え方の凄さ。とんでもなく雄大で。
島田 マーラーの2番の位置づけがよく分からないけど、あんまりいい曲じゃない気がする。
黒崎 えーっ! 何に比べて?
島田 なんとなく交響曲の偽物のような感じがして。特にLPで聴いた時に、さっきのブルックナーに比べると、音楽の質として未熟というか。
黒崎 ブルックナーは9番だから音楽として熟していて。
島田 だからマーラーとしてもまだ交響曲を作っていく上での方法論が十分に確立されていないように思う。
黒崎 島田さんの意見がどのくらいのレベルの深さで言ってるのか不安だけど、すごく深くもあり、表面的でもあると思います。
島田 それが混在している感じがする。
黒崎 ブルックナーの場合、後期の方がすごくいいんですよね。でもマーラの場合は1番が良かったり、4番が良かったり。
島田 DSDの方だと、この曲の欠陥みたいなものを現代で表現するとこういう形になりますよというまったく解釈が違うようなものとして出ている。
黒崎 そう。だからクレンペラーのマーラーは他の指揮者と比べると(たとえばワルターとかショルティとか)主観的ではなく存在論というか。だけどガッティと比べると、自我のエネルギーというか、熱意を感じる。
島田 だから、マーラーの2番には他のと同じ熱意を入れると、なんかちょっとおかしいという感じが僕なんかはする。
黒崎 深いかもしれないし、浅いかもしれないと。その意見に関しては留保するとして。でも、この比較になると、どちらがいいという話にはならないかもしれないね。
島田 だからDSDの可能性はこういうことなんだと示しているよね。以前はDSDで聴くような聴き方は知らなかったわけでしょ。でも今は体験として知っているから、音作りは当然変わってくる。
黒崎 私は昔の指揮者が偉いと思っているから。昔の方が録音もいいし、音場もすごい。でも、ガッティのこの演奏と録音に関しては、昔の方がいいとも言い切れない。マーラーの音楽というのは確かに、現代で演奏されても良いものが生まれるのかもしれない。
島田 マーラーを聴くようになったのはそんなに昔でもないでしょ?
黒崎 60年代〜70年代ぐらいですよね。
島田 そう。僕がマーラーを知ったのは映画なんですよ。ケン・ラッセル監督の『マーラー』(1974)。それを観て5番を買いました。僕にとって初めてのクラシックでもあったわけです。
黒崎 マーラーの5番のアダージェットがヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』(1971)に使われたのが、広まるきっかけですよね。ちなみにクレンペラーはマーラーの愛弟子です。この交響曲2番をピアノ譜にして持っていった。それでマーラーの信頼を勝ち取った。
島田 絶対はないということだね。マーラーについてはまだまだ解釈の余地がありそう。DSDなんかは今までになかったマーラーを作り出している気がする。昔は指揮者が絶対的だった。今はおそらくそうじゃない。
黒崎 昔は歌手が絶対でした。そのうち指揮者中心になり、今はむしろプロデューサーですかね。そういう意味では音楽は永遠、普遍ではないということです。
クラシック音楽を考えても19世紀にドイツで興隆したわけで、つい最近の出来事です。ワーグナーだって亡くなったのは明治ですからね。ブラームスだってそうです。作曲という意味ではある種ピークは終わったわけです。
解釈という形でクラシックは続いてきていますけれど。今は作曲家と分離して、演奏家が独立しているという形に変わっていますが、いつまで存続するか……永遠不滅では決してないですものね。
例えば、マタイ受難曲。この曲って、室町時代、平安時代から聴き継がれてきたように思いません? でも考えてみるとバッハって元禄時代なんですよね。音楽の父と言われているけれどほんの少し前のことです。
島田 ジャズなんかだともっと最近のことですよね。
黒崎 こんな言い方はあれだけど、今日にジャズをやるという意味が私にはほとんどわからない。どういったモチベーションで演奏をしているのか分からない。と、言ったら怒られますけど(笑)。
島田 暴言ですね(笑)。
黒崎 サッチモが吹く意味やコルトレーンが吹く意味は、ジャズが発生し成立していった時代とともにあった。アメリカ、黒人、差別、宗教といった当時の状況と共にジャズの意味があるわけで。そのスピリットはその時代特有のものだと思います。70年代が終わった後、2000年にジャズをやるということの意味が、コルトレーンに捧ぐとか言って関係づけてみても、形骸のような。
島田 確かにジャズは室内楽的になっているとは思います。つまり、小さなサークル。ライヴと言われている小さなサークルの中で、酒や食べ物を飲み食いしながらでも聴くことができる音楽になっているわけでしょう。だから、哲学少年が全人生をかけて聴くようなものは求めていない。
黒崎 今のJAZZプレーヤーのモチベーションは何なんでしょう? 音楽大学にもジャズ科があります。そこにジャズがあったから入りました、ということ以外何もないのか。
島田 ただ、実際演奏した時の客との関係性を考えると、クラシックと比べて非常にジャズは近いじゃないですか。クラシックの演奏会だと拍手の仕方とか儀礼的でしょ?
黒崎 確かに。2楽章で拍手しちゃったら大変。
島田 そういう変な拘束が働いている変な世界じゃないですか。
黒崎 夏目漱石が、日本にクラシック音楽が入ってきた時のことを小説で書いています。友達に連れていかれ会場で聴いているとみんな押し黙っている。奇妙な風景だ。すると突然手を叩く。とんでもない野蛮だ。そしたらまた急にしんとなる。もう耐えられない。つまり、拍手という習慣もその頃できたわけです。明治になっての話で、歌舞伎だって拍手しなかったわけだから。
島田 拍手自体はあるんだけどね、昔から。天皇家の儀礼とかそういうところでは拍手していた。それが一般化するのは、明治8年に神社祭式という本が出た頃、そういう文化が流れてくる。
黒崎 それは日本でみるとそうだけど、西洋化という歴史から見ると、漱石は拍手は外来のものだと捉えている。
島田 まあ、拍手の種類が違うというか。非常に特殊な世界でやっていた。一般の人たちはしないから。
黒崎 お能では未だにないよね。舞台から全員が消えた後に、拍手したければしたらという感じ。
島田 だから能でも拍手するのはおかしな話だと思うよ。
演奏家のモチベーションの話に戻すと、お祭りなんですよ。ライヴってお祭りの場。クラシック音楽は、僕からすると堅苦しくて嫌だなと思うんだよね。音楽の聴き方として、制約があり過ぎる。
黒崎 音楽とは我々にとって何なのかということですよね。確かに祝祭だったり、お祭りだったりということではあるかもしれないね。
島田 クラシックは制度化されてしまっているから。アンコールでも、一回やったら引っ込んで、もう一回拍手するとまた出てきてみたいなことがあるじゃないですか。
黒崎 それはたまに見るから不自然に見えるんで、しょっちゅう見てると当たり前のことですよ。音楽とはそもそもなんであったか、何であるのかということですよね。確かにライヴ感、ライヴを通して人と人との祝祭的な時間、空間。
島田 それは我々にも関係していることで。今の時間もライヴじゃないですか。だから本を書いてもダメというか、なかなか受け入れてもらえないというか。
黒崎 最近、ベストセラー作家(島田氏のことを指している)が、本について落ち込んでいる発言、多いじゃないですか?(笑)
島田 なかなかね、人に伝えるって難しいんですよ。
黒崎 なるほど。今日のこの場のように小さな、だけど深いコミュニティのコミュニケーションは面白いよね。
島田 それが今は必要。だから逆にグールドみたいにただ孤独に演奏して、それをレコードとして出すことは違う。
黒崎 でも、キース・ジャレットみたいにライブだけど観客がみな極度に緊張しちゃって、というのもどうかと思うけどね。
島田 あれはまあ特殊な世界だけどね。
黒崎 音楽とはどういうことかという問いが明確になってきたところで、では、また次回。
<Season2 第2回 終> 第3回へ続く
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黒崎政男Profile 1954年仙台生まれ。哲学者。東京女子大学教授。 東京大学大学院人文科学研究課博士課程修了。 専門はカント哲学。人工知能、電子メディア、カオス、生命倫理などの現代的諸問題を哲学の観点から解明している。 「サイエンスZERO」「熱中時間〜忙中趣味あり」「午後のまりやーじゅ」などNHKのTV、ラジオにレギュラー出演するなど、テレビ、新聞、雑誌など幅広いメディアで活躍。 蓄音器とSPレコードコレクターとしても知られ、2013年から蓄音器とSPレコードを生放送で紹介する「教授の休日」(NHKラジオ第一、不定期)も今年で10回を数えた。 オーディオ歴50年。 著書に『哲学者クロサキの哲学する骨董』『哲学者クロサキの哲学超入門』『カント「純粋理性批判」入門』など多数。 |
島田裕巳Profile 1953年東京生まれ。宗教学者、作家。 東京大学大学院人文科学研究課博士課程修了。 専門は宗教学、宗教史。新宗教を中心に、宗教と社会・文化との関係について論じる書物を数多く刊行してきた。 かつてはNHKの「ナイトジャーナル」という番組で隔週「ジャズ評」をしていた。戯曲も書いており、『五人の帰れない男たち』と『水の味』は堺雅人主演で上映された。映画を通過儀礼の観点から分析した『映画は父を殺すためにある』といった著作もある。 『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)は30万部のベストセラーとなった。他に『宗教消滅』『反知性主義と新宗教』『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『スマホが神になる』『戦後日本の宗教史』『日本人の死生観と葬儀』『日本宗教美術史』『自然葬のススメ』など多数。 |