(株)テクニカフクイ 林保彦氏インタビュー
ピンチはチャンス。従来のやり方に捉われず、新しい商品をどんどん産み出していく
従来のやり方に捉われず、新しい商品をどんどん産み出していく
− テクニカフクイ常務取締役・林 保彦氏
アナログカートリッジの最盛期に世界で70%近くのシェアを誇ったオーディオテクニカの生産部門の中核を担っていた(株)テクニカフクイ。同社は1982年のCDの登場で経営環境が激変した。主力商品の用途が急速かつ大幅な縮小に見舞われた中で光ピックアップ事業に新たに参入し、いまや同社の中核事業となっている。光ピックアップ事業の立ち上げ時から中心メンバーの1人として関わり、育て上げてきた同社の常務取締役 林 保彦氏。工場経営を力強く指揮する同氏に今日に至るまでの経緯や苦労話、そして今後の展開を聞いた。
(インタビュアー・音元出版 新保欣二)
■オーディオテクニカの拠点工場としての役割を担うテクニカフクイ
− 最初にテクニカフクイの歴史を聞かせてください。
林 テクニカフクイは(株)オーディオテクニカの生産部門として、福井県の武生(現:越前市)で1973年にスタートしました。当時、オーディオテクニカのカートリッジは国内のほとんどの家電メーカー様やオーディオメーカー様とお取引があって、生産が注文に追いつかない状況でした。そこで武生を立ち上げた3年後の1973年に池田事業所を立ち上げました。また、1983年にはマイクロホンの専門工場として清水事業所を新たに立ち上げ、さらに1996年には中国での生産展開もスタートしました。
オーディオテクニカの生産拠点は東京のオーディオテクニカ成瀬事業所と、テクニカフクイの2つで、海外の工場はそれぞれの傘下に入っています。
オーディオテクニカグループでは、オーディオテクニカの成瀬(東京)と、テクニカフクイ(福井)の2つの製造拠点を持っています。アナログカートリッジの時代は、成瀬は自社ブランド中心、福井はOEMを中心に作っていました。現在は成瀬でヘッドホンとワイヤードのマイクロホンを中心に、テクニカフクイでは光ピックアップとワイヤレスマイク、ヘッドホン、カートリッジ他のオーディオ機器の製造を担当しています。製品はすべて(株)オーディオテクニカを通じて販売していますので当社には営業部門がありません。
− 営業はすべて親会社のオーディオテクニカが担当しているということですが、企画・開発部門についてはいかがでしょうか。
林 商品企画部門は東京と福井の両方にあります。東京からは市場ニーズをベースにした企画を工場側に投げてきます。逆に福井の商品企画は自分たちにはこういうものができる、作りたいけどどうだろうかという提案を行っています。お互いのフェーズが合えば商品化され、合わない場合は見送られます。福井は市場から離れていますので市場の動きが直接分かりにくい面がありますが、新しいものに対する商品企画のマインドは高いと思っています。成瀬とは同じグループなので技術情報を交換するなど非常に仲良くやっていますが最大のライバルでもあるので、技術屋としてお互いに負けないぞという意気込みで商品開発をしています。
企画や開発についてはオーディオテクニカの社長でもある当社の松下和雄は、これをやってはいけないということは決して言いません。本当に自由にやらせてもらえるので非常に感謝しています。ただ、これは反面、大きなプレッシャーにもなっていますが。
■アナログカートリッジに代わる新たな中核事業として立ち上げた光ピックアップ
− アナログカートリッジを創業した御社ですが、1988年にアナログレコードからCDへの置き換わりという大変な出来事がありました。
林 創業後約10数年間は非常に順調で、最盛期には世界のカートリッジ市場で70%近いシェアをもっていました。ところが1982年にCDが登場したことで経営環境が一変しました。CDの登場後しばらくはそれほど大きな影響はありませんでしたが、1985年頃からアナログプレーヤーのCDプレーヤーへの置き換わりが急速に進み、カートリッジの需要が急激に落ち込んでいきました。1985年から1992年までの間は本当に苦しい時期でした。カートリッジに固執していても将来性はありません。そこで様々な新しい商品に取り組みましたが、その中から光ピックアップ事業を新たな中核事業に育てていくことにしました。
− 同じ信号の取り出し部といっても、カートリッジと光ピックアップでは技術がまったく異なるように思われますが。
林 強いて言えばカートリッジも光ピックアップもディスクに刻まれている信号を最初に取り出すというトランスデューサーという用途は同じだということです。それを作るための技術はまったく異なります。ただほんの一部だけ共通する技術がありました。
カートリッジはレコードの信号を電気に変えますが、CDの場合はその逆です。CDのディスクには偏心や面ブレがありますので対物レンズで信号を追いかけなければいけません。この部分は電磁型といってコイルとマグネットで動かしますが、これはカートリッジの発電機構と同じ技術です。信号が刻まれている部分を追いかけていくという点で、カートリッジも光ピックアップも根っこの技術は同じだったということです。ただ、これは光ピックアップの一部で、それ以外はまったく技術が異なります。
− 当時、光ピックアップの技術は社内にあったのでしょうか。
林 ピックアップはまったく新しい商品分野でしたので大変苦労しました。われわれが取り組む前に、オーディオテクニカの成瀬事業所で光ピックアップに取り組んだ時期がありました。われわれが取り組もうと決めた頃、成瀬では既に事業化を中止していましたが、幸いなことに当時の技術者が1人だけ残っていました。そこで当社の技術者が福井から東京に出向いて、その人に教えを請って始めました。
− 当時はまだCDプレーヤーやディスクがもともと安定していなかった時代でしたから、なおさら大変だったでしょうね。
林 当初はディスクによって読めないものがあるという問題が時々発生しました。いろいろ調べてみると、実はディスク側に問題があったということもよくありました。ディスクメーカーでもそれはわかっていたようで、問題を起こしたディスクがいつの間にか回収されて別のスタンパーで作られていたということまでありました。
海外でもいろいろな問題が起きました。その時に品質面でミスをすると大変なことになることと、改善の大切さを実体験の中で勉強させてもらいました。技術面以外では光ピックアップでは生産設備に大きな投資をかけることが必要で、生産量が増えていくとさらに投資をしなければいけなかったことでもたいへん苦労しました。
今でこそ光ピックアップは当社の中核事業になっていますが、ようやく量産ができるようになってきた1989年から1992年にかけての4年間、様々な問題から量産を全面的に止めた時期がありました。
− カートリッジに代わる事業の中核としての光ピックアップが生産ストップということになると経営的に大変だったのではないでしょうか。
林 光ピックアップの生産を止めるといっても代わりになるものがありませんでした。当社にとってこの4年間が一番苦しかった時期でした。それでも設計開発業務だけは自由にやらせてもらえました。わずか4人のスタッフでしたが、量産の再開を目指して商品開発や技術に一生懸命磨きをかけてきました。
− 量産再開後、その間の苦労が実を結んで大きく花開いたということですね。
林 営業面でも大変苦労しました。当社が参入した当時の光ピックアップの用途はCDプレーヤーだけでした。カートリッジの時にはすべての大手家電メーカーさんやオーディオメーカーさんとお付き合いしていただきましたが、CDプレーヤーが登場した当初は大手メーカーさんではピックアップを自社開発されているところが大半で、なかなか当社のものを採用していただけませんでした。当初は自社で作られていない国内のお客様や韓国、台湾などのメーカーさんに買っていただきました。
それが再スタートした頃には状況は一変していました。PCへのCDの搭載が進んだことによって、CD-ROMの市場が急速に拡大しました。AV用でもレーザーディスクやCD-R/RWが加わり、さらに1996年にはDVDが登場しました。光メディアが多様化してきたことによって、それらに対応するための光ピックアップがそれぞれ必要になってきました。それをすべて自社で作るわけにはいかなくなり、1994年頃から共同開発や設計受託のリクエストがずいぶん増えました。
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