公開日 2024/09/05 11:34
サウンドクリエイトでのイベント模様をレポート
ミュンシュ、カラヤン、ロト。録音で味わうベルリオーズ「幻想交響曲」の革新性
黒崎政男/山之内 正
銀座のオーディオショップ、サウンドクリエイトで開催された「クラシック名曲深堀り」イベント。第一回目は、オーディオファンにも愛好家の多いベルリオーズの『幻想交響曲』をピックアップし、オーディオ評論家の山之内 正氏とカント哲学者でオーディオ愛好家の黒崎政男氏が対談を行った。そのイベントの模様を丸ごとお届けしよう。
ーー本日の司会を担当いたしますサウンドクリエイトの竹田です。本日のイベントは、「クラシック名曲深掘り」と題して、毎回クラシックの有名曲を1つ取り上げて、オーディオ評論家の山之内 正先生と哲学者の黒崎政男先生に音楽とオーディオの両面からお話いただきます。
実は、一昨年前からおふたりと一緒に、毎回さまざまなテーマを設けて試聴企画を実施しておりました。ショルティによる「ワーグナー:ニーベルングの指環」を聴く会もやりましたし、「バッハを聴く」「ウィルキンソンを聴く」は季刊・analog誌でも記事になっています。その現場での両先生の音楽への熱量を目の当たりにして、この熱量をそのまま体感いただきたいと、今日リアルイベントを開催することにいたしました。
今回のテーマはベルリオーズ「幻想交響曲」。山之内先生はあまりこの曲がお好きではないそうですが(笑)、その理由も気になるところですし、「標題音楽」という新しい音楽のスタイルを提示したことなど、話の切り口の豊富さから選びました。今回のシステムはLINNのパッシブ型のフラグシップスピーカー「360 PWAB」。再生芸術がこのレベルまできたいま、音楽をより深い理解で楽しめる、そんな会になればと思います。
※※※ 編集部より ※※※ 今回登場する楽曲について、Spotifyにて配信されているものをプレイリスト化しています。対談内容と合わせてお楽しみください。
黒崎 私も以前は、ベルリオーズはあまり好きではありませんでした。私にとって音楽というのは長いことバッハが中心でしたし、無伴奏といった小編成の曲で精神性を問うものであって、感性重視のロマン派以降の音楽は聴いても馴染まなかったんです。しかし、デジタルのLINN DSを手に入れてからオーディオ熱が再燃して、音楽の趣味がそれまでとガラッと変わってしまったんです。大編成の面白さがイコール音楽の面白さになって、それからベルリオーズの「幻想」が面白くなったんです。色彩の豊かさが楽しくて、気持ちいい。
つまり、オーディオとともに私の音楽の趣味が変化してしまった。その理由の一つに、聴きとれるようになったから面白くなった、ということもあるんです。おそらくそれまでは塊でしかなかったものが、機器の解像度が上がり、個々の楽器やその重なりのアンサンブルの面白さが聴こえるようになった。軽蔑していた「幻想」が今では好きになったと言ったら、軽率な人間のように聞こえますけども…(笑)。
山之内 再生システムで音楽の聴き方が変わるっていうのはすごく面白い話で、私自身も2007年にLINNのDSを購入したときに、同じ曲で別の演奏の聴き比べをするというのが、ものすごくやりやすくなったんですよね。CDやレコードだと、まずディスクを探して見つからないときは諦めることもありましたしね。しかしDSなら、データさえ持っていればあるときはカラヤンのベートーヴェン、ある時はワルターのと即座にかけられる。
黒崎 聴き比べしやすくなった点もありますし、再生クオリティについてもそうで、それぞれの楽器が何をやっているかはっきり分かるのが面白くて。その恩恵を「幻想」で感じられるから、という理由で今回取り上げることにいたしました。
山之内 いろんな楽しみ方があるにせよ、クラシックファンとしては「幻想」って割と早い時期にたどり着きますよね。演奏も録音も沢山あるし、なにせ「標題音楽」っていう世界の面白さがある。ベートーヴェンやブラームスとはまたちょっと違います。標題があると、それに対して演奏家がどう解釈するかがすごく分かりやすいです。
黒崎 「標題音楽」はそもそも何かというお話から。実はここ数年、学生が博士論文を書くというので「ショーペンハウアーの音楽哲学における声楽の問題」というテーマに一緒に取り組んでいました。ショーペンハウアーという人は、カントの継承者で、1788年生まれ、ロマン派の音楽の始まりを40代前後で見ていた人です。彼の思想はニーチェとワーグナーにものすごく影響を与えています。ワーグナーがあのような音楽を作ったのもショーペンハウアーを読み込んでいることによる影響は大きいですね。
ショーペンハウアーは「音楽は芸術の中でも圧倒的な存在で、最高のものだ」ということを言ってます。しかし、面白いことにショーペンハウアーの師であるカントは「全ての芸術の中で音楽は最低の地位」と言ってるんですね。
ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の中で「音楽の与える効果は、他の芸術の与える効果よりも格段に強力ではるかに感動的だ」と。他の芸術は影について語っているが、音楽は本質について語ると、まさに音楽絶対主義という感じですね。
ショーペンハウアーは、音楽はそれ自体が独立した芸術なので、言葉の力とか、何かを描写するとか、そういうことは必要なく、音楽は音楽そのものが持ってる精神性や意思によって独立した存在であり、それに言葉や文学や描写などを含んではいけないと言っているんです。標題を含んだ音楽なんてとんでもない、ということです。
山之内 ベルリオーズはこの「幻想」を書くにあたって各楽章にテーマを設けています。第1楽章「夢、情熱」、第2楽章「舞踏会」、第3楽章「野の風景」、第4楽章「断頭台への行進」、第5楽章「魔女の夜宴の夢」。だんだんおどろおどろしくなっていきますね。
黒崎 そうなんですよ。今言ってきたドイツ系の「絶対音楽主義」とは全く逆なんです。そこが面白くて、これは19世紀におけるドイツとフランスの音楽のローカリティと深く関わってくると思うんです、少なくともドイツ、ウィーン古典派、例えばハイドン、ベートーヴェン、モーツァルトなどはどちらかというと絶対音楽系に属していて、その反対に標題音楽がある。
ですから、この「標題音楽」はベルリオーズが始めたって言ってもいいですね。それ以前にもヴィヴァルディの「四季」は季節を表しましたとか、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」は、小川のせせらぎを音楽で表現しましたとかありますけれども、ここまで個人の内面を具体的に音楽で表現したものは、これ以前にはありません。
山之内 女優さんへの憧れを表現したものですから。すごく人間臭いものですね。
黒崎 そういう意味ではもう音楽史上とても画期的なことをやったんです。
山之内 ベートーヴェンの「田園」の場合は、自然描写で、自然から受ける感情のやすらぎといった“模写”でもあります。ですが、ベルリオーズの場合はもっと人間の感情とダイレクトにつながっています。
黒崎 おそらくはロマン主義のはじまりで、個人の内面の「私」とか「感情」とかいったものがメインになり得る、そういう時代の到来だったんじゃないでしょうか。カントあたりまではまだ理性重視で、個人の感情のようなものは低レベルなもの。思想史的にも、ベルリオーズの「幻想」の辺りから急速にロマン主義の始まりになっていったと見られるんですよね。
「幻想交響曲」を楽曲と録音の双方から深掘りする
ーー本日の司会を担当いたしますサウンドクリエイトの竹田です。本日のイベントは、「クラシック名曲深掘り」と題して、毎回クラシックの有名曲を1つ取り上げて、オーディオ評論家の山之内 正先生と哲学者の黒崎政男先生に音楽とオーディオの両面からお話いただきます。
実は、一昨年前からおふたりと一緒に、毎回さまざまなテーマを設けて試聴企画を実施しておりました。ショルティによる「ワーグナー:ニーベルングの指環」を聴く会もやりましたし、「バッハを聴く」「ウィルキンソンを聴く」は季刊・analog誌でも記事になっています。その現場での両先生の音楽への熱量を目の当たりにして、この熱量をそのまま体感いただきたいと、今日リアルイベントを開催することにいたしました。
今回のテーマはベルリオーズ「幻想交響曲」。山之内先生はあまりこの曲がお好きではないそうですが(笑)、その理由も気になるところですし、「標題音楽」という新しい音楽のスタイルを提示したことなど、話の切り口の豊富さから選びました。今回のシステムはLINNのパッシブ型のフラグシップスピーカー「360 PWAB」。再生芸術がこのレベルまできたいま、音楽をより深い理解で楽しめる、そんな会になればと思います。
※※※ 編集部より ※※※ 今回登場する楽曲について、Spotifyにて配信されているものをプレイリスト化しています。対談内容と合わせてお楽しみください。
「標題音楽」vs「絶対音楽」
黒崎 私も以前は、ベルリオーズはあまり好きではありませんでした。私にとって音楽というのは長いことバッハが中心でしたし、無伴奏といった小編成の曲で精神性を問うものであって、感性重視のロマン派以降の音楽は聴いても馴染まなかったんです。しかし、デジタルのLINN DSを手に入れてからオーディオ熱が再燃して、音楽の趣味がそれまでとガラッと変わってしまったんです。大編成の面白さがイコール音楽の面白さになって、それからベルリオーズの「幻想」が面白くなったんです。色彩の豊かさが楽しくて、気持ちいい。
つまり、オーディオとともに私の音楽の趣味が変化してしまった。その理由の一つに、聴きとれるようになったから面白くなった、ということもあるんです。おそらくそれまでは塊でしかなかったものが、機器の解像度が上がり、個々の楽器やその重なりのアンサンブルの面白さが聴こえるようになった。軽蔑していた「幻想」が今では好きになったと言ったら、軽率な人間のように聞こえますけども…(笑)。
山之内 再生システムで音楽の聴き方が変わるっていうのはすごく面白い話で、私自身も2007年にLINNのDSを購入したときに、同じ曲で別の演奏の聴き比べをするというのが、ものすごくやりやすくなったんですよね。CDやレコードだと、まずディスクを探して見つからないときは諦めることもありましたしね。しかしDSなら、データさえ持っていればあるときはカラヤンのベートーヴェン、ある時はワルターのと即座にかけられる。
黒崎 聴き比べしやすくなった点もありますし、再生クオリティについてもそうで、それぞれの楽器が何をやっているかはっきり分かるのが面白くて。その恩恵を「幻想」で感じられるから、という理由で今回取り上げることにいたしました。
山之内 いろんな楽しみ方があるにせよ、クラシックファンとしては「幻想」って割と早い時期にたどり着きますよね。演奏も録音も沢山あるし、なにせ「標題音楽」っていう世界の面白さがある。ベートーヴェンやブラームスとはまたちょっと違います。標題があると、それに対して演奏家がどう解釈するかがすごく分かりやすいです。
黒崎 「標題音楽」はそもそも何かというお話から。実はここ数年、学生が博士論文を書くというので「ショーペンハウアーの音楽哲学における声楽の問題」というテーマに一緒に取り組んでいました。ショーペンハウアーという人は、カントの継承者で、1788年生まれ、ロマン派の音楽の始まりを40代前後で見ていた人です。彼の思想はニーチェとワーグナーにものすごく影響を与えています。ワーグナーがあのような音楽を作ったのもショーペンハウアーを読み込んでいることによる影響は大きいですね。
ショーペンハウアーは「音楽は芸術の中でも圧倒的な存在で、最高のものだ」ということを言ってます。しかし、面白いことにショーペンハウアーの師であるカントは「全ての芸術の中で音楽は最低の地位」と言ってるんですね。
ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の中で「音楽の与える効果は、他の芸術の与える効果よりも格段に強力ではるかに感動的だ」と。他の芸術は影について語っているが、音楽は本質について語ると、まさに音楽絶対主義という感じですね。
ショーペンハウアーは、音楽はそれ自体が独立した芸術なので、言葉の力とか、何かを描写するとか、そういうことは必要なく、音楽は音楽そのものが持ってる精神性や意思によって独立した存在であり、それに言葉や文学や描写などを含んではいけないと言っているんです。標題を含んだ音楽なんてとんでもない、ということです。
山之内 ベルリオーズはこの「幻想」を書くにあたって各楽章にテーマを設けています。第1楽章「夢、情熱」、第2楽章「舞踏会」、第3楽章「野の風景」、第4楽章「断頭台への行進」、第5楽章「魔女の夜宴の夢」。だんだんおどろおどろしくなっていきますね。
黒崎 そうなんですよ。今言ってきたドイツ系の「絶対音楽主義」とは全く逆なんです。そこが面白くて、これは19世紀におけるドイツとフランスの音楽のローカリティと深く関わってくると思うんです、少なくともドイツ、ウィーン古典派、例えばハイドン、ベートーヴェン、モーツァルトなどはどちらかというと絶対音楽系に属していて、その反対に標題音楽がある。
ですから、この「標題音楽」はベルリオーズが始めたって言ってもいいですね。それ以前にもヴィヴァルディの「四季」は季節を表しましたとか、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」は、小川のせせらぎを音楽で表現しましたとかありますけれども、ここまで個人の内面を具体的に音楽で表現したものは、これ以前にはありません。
山之内 女優さんへの憧れを表現したものですから。すごく人間臭いものですね。
黒崎 そういう意味ではもう音楽史上とても画期的なことをやったんです。
山之内 ベートーヴェンの「田園」の場合は、自然描写で、自然から受ける感情のやすらぎといった“模写”でもあります。ですが、ベルリオーズの場合はもっと人間の感情とダイレクトにつながっています。
黒崎 おそらくはロマン主義のはじまりで、個人の内面の「私」とか「感情」とかいったものがメインになり得る、そういう時代の到来だったんじゃないでしょうか。カントあたりまではまだ理性重視で、個人の感情のようなものは低レベルなもの。思想史的にも、ベルリオーズの「幻想」の辺りから急速にロマン主義の始まりになっていったと見られるんですよね。