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【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち

第14回:森山威男さんが語る「ピットイン」との激動の時代<前編>

公開日 2010/08/31 09:21 インタビューと文・田中伊佐資
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芸大ではクラシックを学んだが
実力で勝負したくてジャズへ


森山:そのうち高校に進学して、その学校に通うために甲府へ引っ越しました。ブラスバンド部に入って、ようやくちゃんと演奏ができる環境になりました。高校2年になった時に、初めて小太鼓を触らせてもらえるようになったんです。それが本当にうれしくてね。一生懸命練習しましたよ。いま思うと、そこそこうまかったんじゃないかな。それからすぐ東京まで毎週レッスンに通わせてもらいました。

佐藤:レッスンというと?

森山:東京芸術大学の先生が教えてくれる打楽器の教室があったんです。始めてから結構スピーディに上達しました。その流れで、ひょんなことから芸大の打楽器科に入学できちゃったんです。

佐藤:山梨版の新聞に載ったそうですね。

森山:ところが大学の授業はクラシックです。いま話したように土壌がまったく無い。演歌と多少のポップスしか知らない。ジャズだってマックス・ローチぐらい。だから芸大では苦労しました。理論もあるしピアノも歌もある。ただ太鼓が好きで入っちゃったもんだから、友達と話をしてもちんぷんかんぷんでね。

佐藤:でも、そのお陰かもしれないですよね。後にジャズに目覚めて「ピットイン」に出るようになったのは。当時、現役の大学生でしたからね。


ピットインの楽屋で気の知れたメンバーとくつろぐ森山さん(1991年)

森山:最初に「ピットイン」に出たのは学生バンドでした。増尾好秋、川崎燎、中村誠一たちと一緒に。でも芸大時代は性格がねじくれました(笑)。素直な田舎の青年だったのに(笑)。先生からは劣等生扱いです。負けず嫌いでしたから、打楽器は猛練習しましたけどね。実はクラシックの道に進もうと思っていたんですよ。事実、日本フィルハーモニー交響楽団には3年生ぐらいから出入りしていて、内定ももらっていました。でもある日決意したんです。クラシックはきっぱり止めようと。

佐藤:やっぱりジャズが好きだったから?

森山:いや、私はジャズが好きでこの世界に入ったわけではないんですよ。生臭い人間関係のいざこざに巻き込まれて、そんなしがらみを立ち切って、実力一本で勝負したくなったんです。

佐藤:そうだったんですか。

森山:だから、この世界に入ってもよく分からなくて、また苦労が始まりました。


山下洋輔がフリーに変化した時
ちょうどそこへ自分がフィットした


佐藤:森山さんは67年から山下洋輔トリオで活動を開始しています。山下さんと出会うきっかけはなんだったんですか。

森山:65年に渡辺貞夫さんがアメリカから帰ってきて、「ギャラリー8」でライヴをやるというので、同じ芸大生だったフルートの中川昌三が誘ってくれたんですね。ドラムは富樫雅彦さんでした。それはもう神業でしたね。そこでピアノを弾いていたのが山下さんです。山下さんも素晴らしかったけど、国立音大の学生だと聞いて「おっ、学生なら同等じゃねえか」と思いましたね(笑)。大学に行けば会えるかなと見当をつけて出かけてみたら、案の定、練習しているわけですよ。

佐藤:わざわざ行ったんですか。

森山:そうです。その頃、早稲田や慶応、東大、いろいろな大学のジャズ・サークルに出かけては飛び入りしていたんです。山下さんには「森山と申します」とちゃんと挨拶して隅の方で聴かせてもらいました。それから何回か通ううちに顔を覚えてもらって、ある日「ちょっと1曲叩かせてください」と図々しくお願いしたんです。

佐藤:初めて聞く話です。どうでしたか。

森山:じゃあ、ちょっとやってみろ、みたいな感じで始まったんですが、こっちはプロじゃないから、まごついちゃう。山下さんは「だめだこりゃ」とすぐ演奏を止めちゃって「おい、行くぞ」とか言って、みんなでどっかへ遊びに行っちゃった(笑)。

今回のインタビューも新宿ピットインのスタジオ内で行われた。理路整然と話す森山さんからは、佐藤さんの知らない話をも飛び出し、場は盛り上がった

佐藤:わははは。

森山:やっぱりオレはだめかと思いましたよ。そんなことがありましたけど、山下バンドのドラムだった豊住芳三郎さんが辞めて空きができたのを知りました。初代山下トリオのサックス、中村誠一とは顔見知りだったので、一声かけてもらったんです。その頃、山下さんは音楽的な志向が変化していて、もうスタンダードや4ビートじゃなかった。とにかく速く、強く、長く叩けるドラマーを欲しがっていた。だったらオレだ(笑)。体力勝負だったら負けない。

佐藤:そういういきさつだったんですか。

森山:後に山下さんに国立音大の一件を訊いてみたんですよ。「そんな意地悪をした覚えはまったくないなあ」と言ってました(笑)。逆に私のドラミングを、自分が探していたものだと認めてくれました。自分がプロになったとはっきり自覚したのは、まさに山下洋輔トリオに加入したその時です。

佐藤:その当時、67年頃はまだベースがいましたね。

森山:吉沢元治さんです。

佐藤:いわゆる山下洋輔トリオがフリージャズになったのは資料によると69年3月。山下さんによると2月1日らしいですが。で、そのきっかけは「ピットイン」開演直前にベースがいなくなったことからのようですが。

森山:ああ、それは私と一悶着あって出て行っちゃったんですよ。

佐藤:山下さんは、そこまで教えてくれなかった。言いにくいことだからね。

森山:こっちはとにかく大きな音で叩く。音が小さいベースと合うわけがないんです。当時PAもしっかりしていないし。それに吉沢さんはテクニックがしっかりした人だから、自分みたいにテンポも何もかもぐちゃぐちゃなドラムと合わせるのはイヤだったんでしょうね。

佐藤:穴を空けるわけにはいかないから、山下さんと森山さんのデュオになった。

森山:そこまでは憶えていないなあ。

佐藤:それがフリーの始まりのようです。ピアノもドラムも自由になったということでしょう。


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