哲学者と宗教学者がオーディオを語り尽くす
黒崎政男×島田裕巳のオーディオ哲学宗教談義 Season 2「存在とはメンテナンスである」<第1回>
3つのオーディオ的立場 カトリック的・プロテスタント的・解脱的
島田 まぁ、それは冗談ですけど(笑)。さて、黒崎さんのオーディオ的立場というのをちょっと解析しようと思います。これはSeazon1(昨年の対談)の復習ですけれど、オーディオの方向性を3つに分けました。ひとつはカトリック的方向。これは超弩級の、例えばピエガ Master Line Source 2のような1000万クラスのスピーカーで、音が降り注いでくるかのように異次元の世界をやろうという方向です。
2つ目のプロテスタント的アプローチというのは、いろんな装置を組み合わせることによって、自分の主体性によって音の世界を作り上げていく。
黒崎 つまり、私が、私にとってのオーディオをやるということですね。逆にカトリック的なというのは、あちらから降り注いできたような。
島田 そう。だからそこでは諦めがつくんです。アヴァンギャルドのtrio Ω G2みたいな大きくて弩級のものは、神だと思えばいい。
あともうひとつ、3つ目のアプローチというのはデジタル派、つまり解脱派ですね。音の歪みを最小限に持って行こうとする方向で。リンEXAKTはどんどんそっちの方向に行っているわけですけれども、デジタルオーディオをやっている人達も徹底していないところがあって。なんとなくプロテスタント的アプローチを入れているから、解脱からどんどん遠ざかっている印象もあるわけです。
黒崎 いい整理方法、作りましたよね。
島田 それで、実は4つ目がある。
黒崎 4つ目?
島田 まずは音を聴いてから話しましょうか。
黒崎 何が始まるんでしょう? 打ち合わせにはなかったですね(笑)。聴けばいいの?
〜なぞの音楽を再生〜
黒崎 すごいねぇ。聴いたことない。
島田 どなたか聴いたことある方います?(と会場に聴く)
男性E ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンですよね。
島田 はい。これは、パキスタンの音楽。カッワーリーの音楽。ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンという人が中心で歌っている曲です。パキスタンの偉大な国民的歌手。ただ、今聴いてもらったのは、カッワーリーのオリジナルではない。カッワーリーというのは要するにスーフィズム、つまりイスラムの神秘主義、パキスタンはイスラムの国ですから、そういう影響を受けた宗教的な音楽なんです。それを西洋的にアレンジしたら、こういうものが生まれた。
黒崎 なるほど。
島田 どこかで知って面白いなと思って。アリー・ハーンさんが来日して、確か厚生年金だったと思うんですけどコンサートをやった時に観に行ったんです。もっと高揚感があって、ある種エクスタシー的な音楽だったんですけど、残念ながらその数年後に彼は亡くなってしまいました。しかも40代。ただ、レコードは膨大に出ているので、こんな西洋的なものやオリジナルのもの、パリでのコンサート録音なんかもレコードとして残っています。
さっきも言った通り、国民的に偉大な歌手なんですけど、実はイスラム教の厳格な人達の立場からすると、神秘主義だから認められないんですよね。
黒崎 神秘主義はダメなの?
島田 要するに快楽という方向に行っちゃうから。扇情的な部分を持っているので、いけないんです。もうひとつかけましょうか。
〜 別のなぞの音楽を再生〜
島田 これは分かると思いますけど、コーランの朗唱で、第1章の「開扉」の章です。このあといくつか組み合わせて、それを日々の礼拝の中で一般的に唱えます。コーラン自体は膨大なので、基本的には最初と最後だけ唱えれば、コーラン全体を読んだことになるんですけど。これは、イスタンブールのコーランの朗唱で、トルコのものになる。
黒崎 へえ……。
島田 で、結論を言うと、黒崎さん、あなたは、これなんですよ。
一同 (笑)
黒崎 ちょ、ちょっと待って(笑)
整理しましょう(笑)。先にかけたものはパキスタンのアリー・ハーンの演奏のもので、若くして亡くなった国民的な英雄だった。神秘主義者で、音楽を快楽の方にもっていくという意味で、イスラムの厳格な人たちからは認められていなかった。そして、西洋化しながらもそういう方向に向かっていた音楽であると。
島田 西洋化しているのはアレンジだけ、演奏自体はもっとオリジナル。
黒崎 で、その次にトルコで行われているアラビア語のコーランの朗唱を再生したと。この2つの共通点?
島田 共通点じゃなくて。
黒崎 違うものなの? で、私はカッワーリー、前者じゃない方?
島田 そう。
黒崎 原理主義?
島田 そう。
一同 (大爆笑)
黒崎 オーディオ原理主義?(笑)