【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち
第8回:渡辺香津美さんが語る「新宿ピットイン」と「六本木ピットイン」<前編>
渡辺貞夫さんを訪ねて弾いたことも
周りの理解者に恵まれて活動を続けた
佐藤:考えてみれば、いまでもそうだけど、いきなりステージに上がってセッションするみたいなことは、頻繁にありますよね。そうやって揉まれていくというのかな。そのなかで頭角を現すことができるかどうかということですね。
渡辺:当時、お客さんとして聴いていると、飛び入りで演奏させてもらえるということはありましたね。といっても、こっちは物欲しそうな顔をしながらギターケースを持って立っているわけなんですけど(笑)。
佐藤:そのうちだんだん大物から声がかかる。
渡辺:とにかく弾けるチャンスがあったらいつでも、という感じではありました。
佐藤:でも高校生ですよね。学校に知られたらまずいわけですよね。
渡辺:それは、親が協力的だったことが大きいです。
佐藤:そう。お母さんと「ピットイン」に来てましたね。保護者同伴ということで。もちろん、まじめなジャズのライブ演奏をやっているわけですけど、まだ未成年ですからね。
渡辺:だから、ちゃんと学校に申請していたんですよ。高校を卒業したらアメリカの音楽大学に留学する、その研修として現場を知っておきたいという名目で。そしたら、担任の先生がとても音楽に理解があって、許可してくれました。「たまには店へチェックしに行くけど、その時はただで入れろよ」(笑)とか言ってね。でも、先生はちゃんとお金を払って見に来てくれました。
佐藤:良き理解者に恵まれていましたね。そういえば、もっと以前のアマチュア時代、お母さんが渡辺貞夫さんのところに香津美さんを連れて行って、ギターを弾かせたという話は本当なの。
渡辺:本当です。それは、貞夫さんから「才能がないからギタリストになるのはあきらめなさい」と忠告してもらうためだと思っていたのですが、事実はちょっと違うみたいです。母親に確認したところ、最近、それが判明しました。
佐藤:というと。
渡辺:むしろギタリストにさせたくて「うちの子はギタリストとして見込みがありそうですか」という、むしろ積極的なアプローチだったようです。
佐藤:なるほど。
渡辺:あの時は貞夫さんの目の前で「枯葉」と「イパネマの娘」を弾きました。そんなに特出した演奏ではなかったですね。でも貞夫さんは「ギターやりたかったら、やればいいんだよ、ハハハハハ」と笑いながら温かい言葉をかけてくれました。
佐藤:高校に入ったばかりですよね。演奏を聴いてもらえるだけでもすごいことだよね。貞夫さんは、すでに雲の上の人だったわけだし。
渡辺:本当にそうですね。そして「ジャズの理論はしっかり身に付けておきなさい、なるべく早くアメリカに行きなさい」ということは言われました。
佐藤:それは自分の経験を踏まえた言葉なんだろうね。
渡辺:こっちは、よーし勉強するぞと気合いが入りました。
自分のバンドで「ピットイン」に出演することが目標であり
好きに演奏できるライブハウスは「ピットイン」しかなかった
24歳で自分のバンドでピットインに
やがて「六本木」で中核として活躍
佐藤:やがて高校を卒業して、さらにステップ・アップします。自分のバンドを作ることになる。
渡辺:75年ぐらいから亡くなったドラムの日野元彦さんとレギュラーで「ピットイン」に出ていました。日野さんがちょっと体調を崩してバンドを休止することになったんです。そこで、よし自分のバンドを作ろうと決意しました。24歳の頃です。自分のバンドで「ピットイン」に出演することはひとつの目標でした。やっぱり「ピットイン」はエルヴィン・ジョーンズが、日本人ミュージシャンと長期セッションした場所という特別なステイタスがありましたからね。
佐藤:66年暮れにエルヴィンが出演してくれたことによって、「新宿ピットイン」は、ジャズのライブハウスとしての市民権を得たというような気がしますね。
佐藤:香津美さんが自分のバンドを率いて活躍しだしてそれからすぐ、77年に「六本木ピットイン」がオープンします。開店当初の客足はとても悪くてね。「もうだめだ。閉めよう」と思った矢先、リー・リトナーとラリー・カールトンが出演して一気に盛り返しました。彼らは、ちょうど「新宿ピットイン」を有名にしたエルヴィンに値するといってもいいでしょう。そしていよいよフュージョン・ブームが到来しました。でもリトナーやカールトンが、ずっと日本に滞在しているわけではないので、彼らの実力に匹敵する日本人ギタリストが、どうしても欲しかったんですね。そうすると、もう香津美さんしかいないわけです。
渡辺:それはありがたい言葉ですが、僕からすると自分が好きなように演奏できるライブハウスは「ピットイン」ぐらいしかなかったんですよ。
佐藤:いまここに「ピットイン史年表」というものを持ってきたんだけど、ずいぶん出演しているね。自分のバンド以外にもいろいろなセッションに顔を出している。
渡辺:バリバリやってますね。
佐藤:そこで、香津美さんと「六本木ピットイン」ゆかりのアルバムを持ってきました。最初の1枚が『ギター・ワークショップVol. 1』。これは77年の録音ですね。
渡辺:山岸潤史、森園勝敏、大村憲司、そして僕、この4人のギタリストが、夜な夜な「六本木ピットイン」に集まってセッションをしていましてね。それがこのアルバムの制作につながったんです。
佐藤:翌年には「六本木ピットイン」でライブ録音をしました。それが『ギター・ワークショップVol. 2』。
周りの理解者に恵まれて活動を続けた
佐藤:考えてみれば、いまでもそうだけど、いきなりステージに上がってセッションするみたいなことは、頻繁にありますよね。そうやって揉まれていくというのかな。そのなかで頭角を現すことができるかどうかということですね。
渡辺:当時、お客さんとして聴いていると、飛び入りで演奏させてもらえるということはありましたね。といっても、こっちは物欲しそうな顔をしながらギターケースを持って立っているわけなんですけど(笑)。
佐藤:そのうちだんだん大物から声がかかる。
渡辺:とにかく弾けるチャンスがあったらいつでも、という感じではありました。
佐藤:でも高校生ですよね。学校に知られたらまずいわけですよね。
渡辺:それは、親が協力的だったことが大きいです。
佐藤:そう。お母さんと「ピットイン」に来てましたね。保護者同伴ということで。もちろん、まじめなジャズのライブ演奏をやっているわけですけど、まだ未成年ですからね。
渡辺:だから、ちゃんと学校に申請していたんですよ。高校を卒業したらアメリカの音楽大学に留学する、その研修として現場を知っておきたいという名目で。そしたら、担任の先生がとても音楽に理解があって、許可してくれました。「たまには店へチェックしに行くけど、その時はただで入れろよ」(笑)とか言ってね。でも、先生はちゃんとお金を払って見に来てくれました。
佐藤:良き理解者に恵まれていましたね。そういえば、もっと以前のアマチュア時代、お母さんが渡辺貞夫さんのところに香津美さんを連れて行って、ギターを弾かせたという話は本当なの。
渡辺:本当です。それは、貞夫さんから「才能がないからギタリストになるのはあきらめなさい」と忠告してもらうためだと思っていたのですが、事実はちょっと違うみたいです。母親に確認したところ、最近、それが判明しました。
佐藤:というと。
渡辺:むしろギタリストにさせたくて「うちの子はギタリストとして見込みがありそうですか」という、むしろ積極的なアプローチだったようです。
佐藤:なるほど。
渡辺:あの時は貞夫さんの目の前で「枯葉」と「イパネマの娘」を弾きました。そんなに特出した演奏ではなかったですね。でも貞夫さんは「ギターやりたかったら、やればいいんだよ、ハハハハハ」と笑いながら温かい言葉をかけてくれました。
佐藤:高校に入ったばかりですよね。演奏を聴いてもらえるだけでもすごいことだよね。貞夫さんは、すでに雲の上の人だったわけだし。
渡辺:本当にそうですね。そして「ジャズの理論はしっかり身に付けておきなさい、なるべく早くアメリカに行きなさい」ということは言われました。
佐藤:それは自分の経験を踏まえた言葉なんだろうね。
渡辺:こっちは、よーし勉強するぞと気合いが入りました。
自分のバンドで「ピットイン」に出演することが目標であり
好きに演奏できるライブハウスは「ピットイン」しかなかった
24歳で自分のバンドでピットインに
やがて「六本木」で中核として活躍
佐藤:やがて高校を卒業して、さらにステップ・アップします。自分のバンドを作ることになる。
渡辺:75年ぐらいから亡くなったドラムの日野元彦さんとレギュラーで「ピットイン」に出ていました。日野さんがちょっと体調を崩してバンドを休止することになったんです。そこで、よし自分のバンドを作ろうと決意しました。24歳の頃です。自分のバンドで「ピットイン」に出演することはひとつの目標でした。やっぱり「ピットイン」はエルヴィン・ジョーンズが、日本人ミュージシャンと長期セッションした場所という特別なステイタスがありましたからね。
佐藤:66年暮れにエルヴィンが出演してくれたことによって、「新宿ピットイン」は、ジャズのライブハウスとしての市民権を得たというような気がしますね。
佐藤:香津美さんが自分のバンドを率いて活躍しだしてそれからすぐ、77年に「六本木ピットイン」がオープンします。開店当初の客足はとても悪くてね。「もうだめだ。閉めよう」と思った矢先、リー・リトナーとラリー・カールトンが出演して一気に盛り返しました。彼らは、ちょうど「新宿ピットイン」を有名にしたエルヴィンに値するといってもいいでしょう。そしていよいよフュージョン・ブームが到来しました。でもリトナーやカールトンが、ずっと日本に滞在しているわけではないので、彼らの実力に匹敵する日本人ギタリストが、どうしても欲しかったんですね。そうすると、もう香津美さんしかいないわけです。
渡辺:それはありがたい言葉ですが、僕からすると自分が好きなように演奏できるライブハウスは「ピットイン」ぐらいしかなかったんですよ。
佐藤:いまここに「ピットイン史年表」というものを持ってきたんだけど、ずいぶん出演しているね。自分のバンド以外にもいろいろなセッションに顔を出している。
渡辺:バリバリやってますね。
佐藤:そこで、香津美さんと「六本木ピットイン」ゆかりのアルバムを持ってきました。最初の1枚が『ギター・ワークショップVol. 1』。これは77年の録音ですね。
渡辺:山岸潤史、森園勝敏、大村憲司、そして僕、この4人のギタリストが、夜な夜な「六本木ピットイン」に集まってセッションをしていましてね。それがこのアルバムの制作につながったんです。
佐藤:翌年には「六本木ピットイン」でライブ録音をしました。それが『ギター・ワークショップVol. 2』。
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