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公開日 2006/10/06 11:21
Woooを創った男たち[3]「新しい魅力と提案を生む、ほどよい遊び心と強い信念」(前編)
32V型を筆頭に、ALIS3兄弟で一気にプラズマ市場を創造した日立Wooo。トップランナーを目指し、その陣頭指揮を執ったのが、当時、商品企画部長として着任した野田哲夫氏だ。競争はさらに厳しくなるが、メイドイン日立で差別化。魅力あふれる提案を連打する。Wooo躍進の背景を商品企画という切り口から、野田氏、そして、現在、商品企画を担当する尾関考介氏、両氏に話を聞く。
(この記事は、弊社「Senka21」2006年9月号所収記事を転載したものです)
■デジタル事業は先手必勝PDPでトップランナーに
―― 日立がプラズマ事業を立ち上げる。商品企画部長として着任され、どんなお気持ちでしたか。
野田 上海の洗濯機工場への異動内示が出て、単身赴任の準備を始めていたところ、そのわずか1週間後です。PDP事業をスタートするから商品企画部長を命ずるというわけです。74年に入社して18年間、オーディオをやっていましたが、ほとんどアナログの世界でしたし、その後は洗濯機の事業部に移りましたから、AVに復帰したとはいえ、素人みたいなものです。そこで、とにかく基本に戻ろうと考え、着任して最初に立てたのが、自分に対するミッションとも言える、5つの戦略です。
1つは、デジタル時代はとにかく先行することです。これからは映像もSDからHDへ、ユビキタスネットワーク時代もやってきます。AV事業全般にわたり、アナログからデジタルへの事業構造の転換を加速し、デジタル時代を先取りしていくことが大切だと考えました。
2つ目は、当時、テレビとビデオが大きな柱でしたが、ブラウン管テレビは赤字の垂れ流しのような状態です。デジタル時代を先取りするためにも、ブラウン管事業からいち早く脱却しなければならない。販社や販売店からは、「売れているものを止めるなんてとんでもない」と大きな抵抗を受けましたが、当時すでに、生産拠点を横浜から岐阜へ、さらにはタイ・インドネシアへと移しても、赤字が減らない。最終的には中国までもって行きましたが、もう、ブラウン管事業は成り立たない。しかし、「いつかは捨てられる、止められる」という気持ちでは絶対に新しいことはできません。
3つ目は、プラズマテレビでトップランナーになることです。ブラウン管テレビでは、日立はマラソンで言えば後方集団を走っていましたが、世の中の流れをプラズマにガラリと変えることができれば、一気にトップになることができます。
4つ目は、メイドイン日立の商品づくりです。トップランナーになるためにはいい商品をつくらなければなりませんが、日立グループにはいろいろなデジタル技術がありました。プラズマパネルは富士通日立プラズマディスプレイ、液晶は日立ディスプレイズ(当時、現在はIPSαテクノロジー)、ストレージ系にも、ハードディスクは日立グローバルストレージテクノロジーズ、DVDのメモリー・デバイスには、世界・1シェアの日立LGデータストリームがあります。こうした他メーカーにないもので、メイドイン日立にこだわり、他社と差別化すれば、プラズマの日立、日立といえばプラズマというイメージをつくっていくことができます。
そして5つ目は、プラズマの事業の早期黒字化です。日立製作所の商品企画部長として、マーケティングして商品を企画するだけではなく、収益に対する責任があります。ただものを作っているだけではダメ。自分が作った商品が今、市場でいくらで、何台売れて、どれだけ儲かっているのか。そこまで把握していなければなりません。プラズマ事業を担当してから1年半、02年下期には黒字化を達成できました。
―― 5つのミッションに対し、具体的にはどのように取り組みをおこなっていかれましたか。
野田 これからプラズマという新しい市場を創っていくわけですから、当時は、マーケティングの基本に戻ろうということを、部下にも口やかましく言いました。マーケティングとは仮説を立て、それを検証し、実行していくことです。実行すれば必ず結果が出る。そこからまた仮説を立てて進めていきます。特に新しいことをやるときは、少しでもわからないことがあればお客様に聴くのが一番。これが商品企画の基本です。
まず行ったのは、01年4月に発売した32V型プラズマテレビを購入されたお客様の追跡調査です。どんな人が購入し、どのように使っておられるのか。私も自ら背広にネクタイで、5月の連休を返上してお客様を訪問しました。これは、本当に大きな成果がありました。
当初、購入者は医者や弁護士、社長クラスの人などがイメージされていましたが、実際には、普通の仕事をされている人が多く、特別なお金持ちというわけではない。また、若い人もいらっしゃいました。
例えば、米国帰りだという若いご夫婦は、奥様は「薄型になって掃除がかんたん」「近所の奥様を呼んで優越感を感じる。時代を先取りしている」と喜ばれていました。ご主人は「これからはデジタル時代だから薄型になる。家庭の中でプラズマテレビはいわばいろいろな情報を入れる情報ボード。掲示板なら薄くないといけない」と言うわけです。私が思っていたことをズバリ言われたものですからびっくりしました。
雑誌関係のカメラマンという方は、「ハイビジョンの映像を仕事で撮っている。その素晴らしい映像を、いつかは家庭で見たいと思っていたところ、こんな手頃な価格で商品が出てきた」というわけです。お金持ちでなくても、ごく自然に家庭の中でハイビジョンを楽しむニーズがある。日立の提案している内容が間違いないと確信したのはこの時です。
20代の男性は6畳のワンルームマンションで楽しんでいましたが、本当に、寝るところと食べるところしかないような場所に、プラズマが鎮座しているんです(笑)。「プラズマというのは物凄いポテンシャルがあるものだ」と改めて感嘆しましたね。
カタログにお客様のご自宅の使用風景の写真を入れさせていただくようになったのもそれからです。店頭でもまだ、誰がどんな使い方をしているかわからない。プラズマのユーザーは、実は、販売店の周りにいらっしゃる普通のお客様だということを伝えたかったんです。
商品発売前にもいろいろなグループインタビューを行いましたが、同時にインターネット調査を行って、約1900名のデータを集めました。当時、リビングにあるテレビで一番多いのは29インチの4対3で、そのお客様に「次は何インチを買いますか」と聞くと、1位が32インチ、次が36インチでした。さらに、「どんなタイプのテレビを買いますか。従来のブラウン管テレビですか、薄型テレビですか」という問いには、圧倒的に薄型テレビでした。
われわれが仮説を立て、実際に商品を発売し、お客様の追跡調査で感じたこと。それと並行したインターネット調査で、32V型プラズマテレビは間違いなく売れることが裏付けられたのです。
■日立の消費者イメージを大きく変えたWooo
―― 32V型を出すにあたり市場からの逆風はありませんでしたか。
野田 われわれは他社とは姿勢が違いました。ブラウン管を一生懸命やっているメーカーにすれば、プラズマはまだイメージ商品に過ぎない。しかし日立は、プラズマを事業とするために、大衆化させ、マーケットを創ろうとしていました。そのためには、お客様が一番欲しいと思っている商品を発売することは当たり前のことです。それが、価格を半分にした32V型です。さらに、37V型、42V型とラインナップを揃えた「ALIS3兄弟」で、一気に市場創造を目指しました。
私は「倍半作戦」と言っていますが、機能でも価格でも、倍になったとか、半分になったということで初めてインパクトが出てきます。例えば、「5%原価を低減しなさい」と言われたら、部品調達であといくらか下げられないかと考えます。それだと結果としても、5%は下がられない。ところが「原価を半減しろ」と言われたら、発想そのものが変わるんです。「回路を変えよう」「基板を変えよう」「3個あったLSIを1個にしてしまおう」といった発想が出てきます。32V型のプラズマテレビも、価格が半分にできたからこそインパクトがありました。
それから大切なのはネーミングです。私は白物をやっていたときも、洗濯機で「お湯取物語」「カラッと脱水」、掃除機でも「かるワザ」「イオン洗浄」はじめ、いろいろなネーミングを作ってアピールしてきました。ネーミングは“物言わぬ最大のセールスマン”だからです。ところが、このプラズマにはまだ名前がありませんでした。そこで、4月に32V型、6月に37V型が出て、8月に42V型が発売になってALIS3兄弟が揃うタイミングに、「Wooo」というネーミングを発表しました。
実は、私がWoooの名付け親です。3つの「Wo」を重ねたもので、お客様に感動を与えたい「Wonder」。新しい価値、ハイビジョンも手軽に見られる「Worthwhile」。日立がこれから全世界で薄型テレビ(プラズマ)を世界標準に変えていく意気込みを示した「World standard」です。「Wooo」と言っても意味がわかりません。だからいい。お客様は、どういう意味なのか販売店やメーカーに尋ねてきます。そこでお客様との接点ができるわけです。日立では03年度に、新しい事業や取り組みで日立の企業イメージをあげた顕著なものに対する表彰制度ができたのですが、その社長知的財産権、商標部門賞の第1号を「Wooo」が受賞しています。
さらに、アナログからデジタルへの放送の過渡期に、幅広いお客様に選択肢を与える商品計画として、AVCとモニターを別にした「Woooセレクション」や、Woooワールドとして、テレビだけでなく、ビデオ、ビデオカメラ、液晶プロジェクターなど日立のネットワークした商品群をつくることで、さらなるイメージアップに力を入れました。
―― 日立の強み、Woooの強みを啓蒙していくための販促策も重要になったと思います。
野田 ターゲットとしてまず、団塊世代を取り込む方針を強く打ち出しました。団塊世代は若いときに欲しいものが買えなかった我慢の世代です。ですから、自分の本当に欲しいものはいつか必ず買うんだという強いこだわりを持っています。そのエネルギーこそが、フラットテレビ市場の牽引力です。エルダーマーケティングが大事であることを何度となく言ってきました。現在はそれを身を持って実践する立場にありますが、北海道でもここに来て、エルダー層が物凄いスピードで薄型大画面テレビの購入に動いており、リビングのテレビが一気に変わるぞ、という手応えを感じ取っています。
―― 商品企画の責任者から、販売の責任者に立場が変わりました。そこで新たに見えてきたこと、感じたことはありますか。
野田 ものを作ることはむずかしい。しかし、それを売ることはもっとむずかしいですね。現在の商品企画担当に言いたいのは、あまり収益ばかりにとらわれず、「夢を持て」「遊び心を持て」「信念を持て」の「三持ての精神」でいい商品を作ってもらいたいと思います。
遊び心をある程度持ち、なおかつ、やると決めたらそれに向かって信念を持って突き進む。そして走る方向にはきちんと夢を描いていること。私は、プラズマで絶対トップシェアをとる、事業を黒字化するという強い信念を持ってやってきました。私の座右の銘は、後漢書の中にある「志ある者は事ついに成る」という言葉です。志や夢を持てば思いがかなう。三持ての精神」と意味するところは同じです。
今でこそ、時代がブラウン管からプラズマに変わったことは売り場から一目で伝わってきますが、何もないところからのスタートは、「人づくり」「お店づくり」「お客様づくり」と大変でした。しかしその中で、Woooというブランドが日立のイメージを大きく変えました。プラズマの事業に立ち会うことができ、さらにネーミングまでさせてもらい、本当に幸せですね。
【プロフィール】
野田哲夫(のだ・てつお)●1951年4月17日生まれ。岐阜県出身。1974年4月(株)日立製作所音響機器事業部入社。ラジカセなどオーディオを担当。1992年リビング機器事業部事業企画部長就任、洗濯機・掃除機を担当。2001年4月デジタルメディアグループAV商品企画部長就任、2002年10月ブロードバンド機器本部担当本部長就任、プラズマテレビなど"Wooo"全製品を担当。2005年4月日立コンシューマ・マーケティング(株)北海道社社長就任、現在に至る。趣味はゴルフ、渓流釣り、水彩画、カラオケなど多彩。
【バックナンバー】
・[1]「製品開発は無から有を生み出す夢の集団」
・[2]「ALISパネルのこれまでとこれから」
(この記事は、弊社「Senka21」2006年9月号所収記事を転載したものです)
■デジタル事業は先手必勝PDPでトップランナーに
―― 日立がプラズマ事業を立ち上げる。商品企画部長として着任され、どんなお気持ちでしたか。
野田 上海の洗濯機工場への異動内示が出て、単身赴任の準備を始めていたところ、そのわずか1週間後です。PDP事業をスタートするから商品企画部長を命ずるというわけです。74年に入社して18年間、オーディオをやっていましたが、ほとんどアナログの世界でしたし、その後は洗濯機の事業部に移りましたから、AVに復帰したとはいえ、素人みたいなものです。そこで、とにかく基本に戻ろうと考え、着任して最初に立てたのが、自分に対するミッションとも言える、5つの戦略です。
1つは、デジタル時代はとにかく先行することです。これからは映像もSDからHDへ、ユビキタスネットワーク時代もやってきます。AV事業全般にわたり、アナログからデジタルへの事業構造の転換を加速し、デジタル時代を先取りしていくことが大切だと考えました。
2つ目は、当時、テレビとビデオが大きな柱でしたが、ブラウン管テレビは赤字の垂れ流しのような状態です。デジタル時代を先取りするためにも、ブラウン管事業からいち早く脱却しなければならない。販社や販売店からは、「売れているものを止めるなんてとんでもない」と大きな抵抗を受けましたが、当時すでに、生産拠点を横浜から岐阜へ、さらにはタイ・インドネシアへと移しても、赤字が減らない。最終的には中国までもって行きましたが、もう、ブラウン管事業は成り立たない。しかし、「いつかは捨てられる、止められる」という気持ちでは絶対に新しいことはできません。
3つ目は、プラズマテレビでトップランナーになることです。ブラウン管テレビでは、日立はマラソンで言えば後方集団を走っていましたが、世の中の流れをプラズマにガラリと変えることができれば、一気にトップになることができます。
4つ目は、メイドイン日立の商品づくりです。トップランナーになるためにはいい商品をつくらなければなりませんが、日立グループにはいろいろなデジタル技術がありました。プラズマパネルは富士通日立プラズマディスプレイ、液晶は日立ディスプレイズ(当時、現在はIPSαテクノロジー)、ストレージ系にも、ハードディスクは日立グローバルストレージテクノロジーズ、DVDのメモリー・デバイスには、世界・1シェアの日立LGデータストリームがあります。こうした他メーカーにないもので、メイドイン日立にこだわり、他社と差別化すれば、プラズマの日立、日立といえばプラズマというイメージをつくっていくことができます。
そして5つ目は、プラズマの事業の早期黒字化です。日立製作所の商品企画部長として、マーケティングして商品を企画するだけではなく、収益に対する責任があります。ただものを作っているだけではダメ。自分が作った商品が今、市場でいくらで、何台売れて、どれだけ儲かっているのか。そこまで把握していなければなりません。プラズマ事業を担当してから1年半、02年下期には黒字化を達成できました。
―― 5つのミッションに対し、具体的にはどのように取り組みをおこなっていかれましたか。
野田 これからプラズマという新しい市場を創っていくわけですから、当時は、マーケティングの基本に戻ろうということを、部下にも口やかましく言いました。マーケティングとは仮説を立て、それを検証し、実行していくことです。実行すれば必ず結果が出る。そこからまた仮説を立てて進めていきます。特に新しいことをやるときは、少しでもわからないことがあればお客様に聴くのが一番。これが商品企画の基本です。
まず行ったのは、01年4月に発売した32V型プラズマテレビを購入されたお客様の追跡調査です。どんな人が購入し、どのように使っておられるのか。私も自ら背広にネクタイで、5月の連休を返上してお客様を訪問しました。これは、本当に大きな成果がありました。
当初、購入者は医者や弁護士、社長クラスの人などがイメージされていましたが、実際には、普通の仕事をされている人が多く、特別なお金持ちというわけではない。また、若い人もいらっしゃいました。
例えば、米国帰りだという若いご夫婦は、奥様は「薄型になって掃除がかんたん」「近所の奥様を呼んで優越感を感じる。時代を先取りしている」と喜ばれていました。ご主人は「これからはデジタル時代だから薄型になる。家庭の中でプラズマテレビはいわばいろいろな情報を入れる情報ボード。掲示板なら薄くないといけない」と言うわけです。私が思っていたことをズバリ言われたものですからびっくりしました。
雑誌関係のカメラマンという方は、「ハイビジョンの映像を仕事で撮っている。その素晴らしい映像を、いつかは家庭で見たいと思っていたところ、こんな手頃な価格で商品が出てきた」というわけです。お金持ちでなくても、ごく自然に家庭の中でハイビジョンを楽しむニーズがある。日立の提案している内容が間違いないと確信したのはこの時です。
20代の男性は6畳のワンルームマンションで楽しんでいましたが、本当に、寝るところと食べるところしかないような場所に、プラズマが鎮座しているんです(笑)。「プラズマというのは物凄いポテンシャルがあるものだ」と改めて感嘆しましたね。
カタログにお客様のご自宅の使用風景の写真を入れさせていただくようになったのもそれからです。店頭でもまだ、誰がどんな使い方をしているかわからない。プラズマのユーザーは、実は、販売店の周りにいらっしゃる普通のお客様だということを伝えたかったんです。
商品発売前にもいろいろなグループインタビューを行いましたが、同時にインターネット調査を行って、約1900名のデータを集めました。当時、リビングにあるテレビで一番多いのは29インチの4対3で、そのお客様に「次は何インチを買いますか」と聞くと、1位が32インチ、次が36インチでした。さらに、「どんなタイプのテレビを買いますか。従来のブラウン管テレビですか、薄型テレビですか」という問いには、圧倒的に薄型テレビでした。
われわれが仮説を立て、実際に商品を発売し、お客様の追跡調査で感じたこと。それと並行したインターネット調査で、32V型プラズマテレビは間違いなく売れることが裏付けられたのです。
■日立の消費者イメージを大きく変えたWooo
―― 32V型を出すにあたり市場からの逆風はありませんでしたか。
野田 われわれは他社とは姿勢が違いました。ブラウン管を一生懸命やっているメーカーにすれば、プラズマはまだイメージ商品に過ぎない。しかし日立は、プラズマを事業とするために、大衆化させ、マーケットを創ろうとしていました。そのためには、お客様が一番欲しいと思っている商品を発売することは当たり前のことです。それが、価格を半分にした32V型です。さらに、37V型、42V型とラインナップを揃えた「ALIS3兄弟」で、一気に市場創造を目指しました。
私は「倍半作戦」と言っていますが、機能でも価格でも、倍になったとか、半分になったということで初めてインパクトが出てきます。例えば、「5%原価を低減しなさい」と言われたら、部品調達であといくらか下げられないかと考えます。それだと結果としても、5%は下がられない。ところが「原価を半減しろ」と言われたら、発想そのものが変わるんです。「回路を変えよう」「基板を変えよう」「3個あったLSIを1個にしてしまおう」といった発想が出てきます。32V型のプラズマテレビも、価格が半分にできたからこそインパクトがありました。
それから大切なのはネーミングです。私は白物をやっていたときも、洗濯機で「お湯取物語」「カラッと脱水」、掃除機でも「かるワザ」「イオン洗浄」はじめ、いろいろなネーミングを作ってアピールしてきました。ネーミングは“物言わぬ最大のセールスマン”だからです。ところが、このプラズマにはまだ名前がありませんでした。そこで、4月に32V型、6月に37V型が出て、8月に42V型が発売になってALIS3兄弟が揃うタイミングに、「Wooo」というネーミングを発表しました。
実は、私がWoooの名付け親です。3つの「Wo」を重ねたもので、お客様に感動を与えたい「Wonder」。新しい価値、ハイビジョンも手軽に見られる「Worthwhile」。日立がこれから全世界で薄型テレビ(プラズマ)を世界標準に変えていく意気込みを示した「World standard」です。「Wooo」と言っても意味がわかりません。だからいい。お客様は、どういう意味なのか販売店やメーカーに尋ねてきます。そこでお客様との接点ができるわけです。日立では03年度に、新しい事業や取り組みで日立の企業イメージをあげた顕著なものに対する表彰制度ができたのですが、その社長知的財産権、商標部門賞の第1号を「Wooo」が受賞しています。
さらに、アナログからデジタルへの放送の過渡期に、幅広いお客様に選択肢を与える商品計画として、AVCとモニターを別にした「Woooセレクション」や、Woooワールドとして、テレビだけでなく、ビデオ、ビデオカメラ、液晶プロジェクターなど日立のネットワークした商品群をつくることで、さらなるイメージアップに力を入れました。
―― 日立の強み、Woooの強みを啓蒙していくための販促策も重要になったと思います。
野田 ターゲットとしてまず、団塊世代を取り込む方針を強く打ち出しました。団塊世代は若いときに欲しいものが買えなかった我慢の世代です。ですから、自分の本当に欲しいものはいつか必ず買うんだという強いこだわりを持っています。そのエネルギーこそが、フラットテレビ市場の牽引力です。エルダーマーケティングが大事であることを何度となく言ってきました。現在はそれを身を持って実践する立場にありますが、北海道でもここに来て、エルダー層が物凄いスピードで薄型大画面テレビの購入に動いており、リビングのテレビが一気に変わるぞ、という手応えを感じ取っています。
―― 商品企画の責任者から、販売の責任者に立場が変わりました。そこで新たに見えてきたこと、感じたことはありますか。
野田 ものを作ることはむずかしい。しかし、それを売ることはもっとむずかしいですね。現在の商品企画担当に言いたいのは、あまり収益ばかりにとらわれず、「夢を持て」「遊び心を持て」「信念を持て」の「三持ての精神」でいい商品を作ってもらいたいと思います。
遊び心をある程度持ち、なおかつ、やると決めたらそれに向かって信念を持って突き進む。そして走る方向にはきちんと夢を描いていること。私は、プラズマで絶対トップシェアをとる、事業を黒字化するという強い信念を持ってやってきました。私の座右の銘は、後漢書の中にある「志ある者は事ついに成る」という言葉です。志や夢を持てば思いがかなう。三持ての精神」と意味するところは同じです。
今でこそ、時代がブラウン管からプラズマに変わったことは売り場から一目で伝わってきますが、何もないところからのスタートは、「人づくり」「お店づくり」「お客様づくり」と大変でした。しかしその中で、Woooというブランドが日立のイメージを大きく変えました。プラズマの事業に立ち会うことができ、さらにネーミングまでさせてもらい、本当に幸せですね。
【プロフィール】
野田哲夫(のだ・てつお)●1951年4月17日生まれ。岐阜県出身。1974年4月(株)日立製作所音響機器事業部入社。ラジカセなどオーディオを担当。1992年リビング機器事業部事業企画部長就任、洗濯機・掃除機を担当。2001年4月デジタルメディアグループAV商品企画部長就任、2002年10月ブロードバンド機器本部担当本部長就任、プラズマテレビなど"Wooo"全製品を担当。2005年4月日立コンシューマ・マーケティング(株)北海道社社長就任、現在に至る。趣味はゴルフ、渓流釣り、水彩画、カラオケなど多彩。
【バックナンバー】
・[1]「製品開発は無から有を生み出す夢の集団」
・[2]「ALISパネルのこれまでとこれから」