今と昔、ゲームの音楽はどう変わった?
『真・女神転生』25周年記念作に参加したゲーム作曲家たちは25年前なにを聴いていたの?
1992年10月30日に発売された、スーパーファミコン用ソフト『真・女神転生』。199X年の東京を舞台に、「悪魔召喚プログラム」で神話に登場する神や悪魔などを仲魔にして使役する、といった近未来的かつサイバーダークな世界観。多くの男子が心くすぐられたのではないだろうか。
さて、そんな『真・女神転生』シリーズも、今年で25周年。最新タイトル『真・女神転生 DEEP STRANGE JOURNEY』が10月26日に発売となる。人気を博した世界観はそのままに、“真・女神転生史上、最もディープな悪魔体験!”というキャッチがつけられる最新作。ぜひ遊んでみよう!
『真・女神転生 DEEP STRANGE JOURNEY』には初回生産限定のスペシャルボックスが用意されている。多数の特典が魅力なのだが、ここでは「レアサントラ&メモリアルアレンジトラックス」、さらに言えばアトラスサウンドチームと外部のサウンドコンポーザーが参加、アレンジを施した「メモリアルアレンジトラックス」に注目したい。
長い年月のなかで、ゲームサウンドを取り巻く環境は大きく変化した。それは作る側からも聴く側からも同様で、ソフト・ハードの面であったり、音楽やゲームジャンルの流行り廃りであったり、とにかく様々。当時、高校生だった子が40歳を過ぎた大人になっているわけだから、当たり前と言えば当たり前だろう(なお、25年前は「クレヨンしんちゃん」のアニメ放送が始まった年だ/wiki調べ)。
ここから本題。25年前はそれほど昔の話だが、いまゲームサウンドを作っている現役のクリエイターは、そのころ何を聴いていたのだろうか? そして、昔といまでゲームサウンドはどう変わったのか? 今回、「メモリアルアレンジトラックス」に参加した4名にお話をうかがうことができたので、その模様をお伝えしたい。
なお、本記事はロングインタビューなので、『真・女神転生 DEEP STRANGE JOURNEY』のアレンジはどういったものかだけ知りたいという方は、最後のページを読んで欲しい。
―― 今日はお時間頂きまして有難うございます。読者の皆さんはご承知の通りだとは思いますが、改めて自己紹介をお願いします。
目黒:アトラスの目黒将司と申します。1996年に新卒で入社しました。『女神異聞録ペルソナ』が最初の仕事で、『ペルソナ』と『真・女神転生』を延々やってきました。
小塚:アトラスの小塚良太と申します。2007年に23歳で中途入社で入りまして、『ペルソナ』関連だったりをお手伝いさせていただいたりして、『真・女神転生IV』あたりから、本格的にコンポーザーをやらせていただいています。
柴田:ユニークノートの柴田徹也と申します。私は1997年にカプコンに入社しました。始めは金融系の会社に入社の予定だったのですが、入社せずに就職浪人して、ゲーム会社を受け直した形になります。カプコンでは『デビルメイクライ』シリーズとか『モンハン』シリーズを中心に担当して、2009年に独立、ユニークノートという会社を立ち上げて活動しています。
坂本:ノイジークロークの坂本英城と申します。1997年にこの仕事を始めて、今年でちょうど20年なのでお祝いのコメントがあれば、お待ちしております。代表作は『勇者のくせになまいきだ。』シリーズとか『タイムトラベラーズ』、『モンスターストライク』や『文豪とアルケミスト』『討鬼伝』シリーズなどをやっています。
―― 『真・女神転生』が1992年発売ですので、その当時はまだ仕事としてゲーム音楽に携わる前なのですね。その頃はどのような活動を?
坂本:25年前はシーケンサーだったり、当時Macintoshがやっと学生でも頑張れば買えるぐらいの価格になったので、打ち込みとかやってましたね。
―― どこかでゲーム音楽を目指すようになったキッカケはあったのでしょうか?
坂本:中学2年のときにファミコンと出会って、こういう仕事をしたいと思うようになりました。“ゲーム音楽家”になりたい、と。でも、途中でモテないということに気づいて(笑)。作曲してるんだよって言っても、それがゲームと分かると「ゲームぅ?」って怪訝な感じの反応をされたり。非常に言いだしにくい時代だったのが、今ようやく市民権を得て堂々と「ゲーム音楽作ってます」と言えるようになりました。
―― 柴田さんは金融系の会社から突然の方向転換ですが、音楽はもともと携わっていたのでしょうか?
柴田:元々ピアノを幼少期からやっていました。92年というとちょうど大学に入った年で、その頃はBOØWYとかが全盛期のバンドブームだったんですよ。それで自分はベースを弾いていたのですが、大学に入ったのをきっかけにジャズ研究会という全然女の子がいないオタクなサークルに入りました(笑)。そこで本格的に、ジャズとかを勉強したという感じです。
―― 作曲家ではなく、プレーヤーとして?
柴田:そうですね。実はピアニストとしてバークリーに留学しようとしていました。ですが、それまでずっと僕の音楽活動に反対していた父親が、「行って良いぞ」と言ってくれて。それで、親にずっと反発していたので、行くのは辞めようと思ったんです(笑)。
―― 反発心がエネルギーになっている部分もあったのかもしれませんね。
柴田:就職活動を始めて、金融系の会社やメーカーから内定を貰ったのですが、義理のお兄さんから「ゲーム音楽を作る仕事があるみたいだよ」と教わったんです。そこから作曲を始めて、バイトをしながらちまちま作って、それを会社に送っていましたね。
―― ゲーム自体はもともと遊んでいらっしゃったんですか?
柴田:僕らの年代は皆やってますよ。小学生のときにファミコンが出てきて、スーファミに変わって、PlayStation(以下、PS)に変わっていくっていう時代なので。もう本当に、やってない人はいないっていうぐらいですね。
坂本:やっていることを隠している奴はいましたね。「俺は作家一筋だ」とか言って、指にコントローラーのマメが出来てたり(笑)。
柴田:小学校のとき、ファミコンの音楽をピアノで弾くと、「凄い凄い!」って言われました。
坂本:ヒーロー扱いですね。柴田さんは最初に仕事で携われたハードってなんですか?
柴田:アーケード基板なんですよ。CPS2(CPシステムII)という、カプコンの『ストリートファイターII』の基板でした。家庭用としては、ドリームキャストになるのかな。
―― 目黒さん、小塚さんは入社前からアトラスのゲームは好きだったんですか?
小塚:自分はこの仕事に就くとは思っていないころに、たまたまなんですけど『ソウルハッカーズ』(デビルサマナー ソウルハッカーズ)に普通にゲームとしてハマっていました。それで、この音を含めての世界観が凄く良いなと思っていたので、アトラスという会社名は記憶に残っていました。いざこの仕事に就こうと思ったときに、アトラスがちょうど募集していて、「『ソウルハッカーズ』のアトラスだな」と思って入ったいきさつがあります。
―― 子どものころはいまのお仕事に就くとは思っていなかったということですが、音楽そのものは趣味だったりしたのでしょうか?
小塚:25年前は小学生くらいだと思うんですけど、その頃はまったく音楽は嫌いというか、音楽の授業も嫌いでしたね(笑)。スーパファミコン世代なのですが、『ファイナルファンタジー』とかの辺りからプレイを楽しんでいるうちに、音楽が耳に入って興味をもっていったというのがゲーム音楽の入り口でした。
目黒:自分は25周年に相応しくない話ですが、いっぱい会社に落ちて、20社目でようやくアトラスを見つけて、応募してなんとか入れてもらいました。アトラスの名前も、その時に初めて知ったんです。
―― あまりゲームはやっていなかった?
目黒:コンシューマーゲームは、ほぼやったことがないです。ファミコンも持っていなかったし、友達から借りて『ゼビウス』をやっていたぐらいですね。スーファミも、末期に父親と一緒にお金を出し合って、最初に買ったのが麻雀ゲームでした(笑)。中学校ぐらいに8bitパソコンを買ってもらったので、自分でプログラムを組んだり、ポケコンとかで大学の頃にゲームを作ったりしていました。ゲームを作るのはかなり好きだったんです。
―― そのころは音楽ではなく、ゲーム自体を作っていたんですね。
目黒:音楽は、PSやサターンになった当時、「内蔵音源ではなくCDから音楽が出るらしい」と聞いて、「凄い!」と思って。CDから出るということは、普通の音楽と一緒だなと思いまして、「じゃあゲーム会社だったら、サラリーマンとして毎月給料をもらえて、音楽を作って、しかもCDから音が出せる。これしかない!」と。カプコンも受けましたよ。でも、軒並み全部落ちまして。ようやくアトラスに拾ってもらえて、入ってみたら、内蔵音源だった。
坂本 柴田 小塚:(笑)
目黒:うちはストリーム再生はもう10年くらい経ってからでしたね。
坂本:ゲームがどういう作りかによって変わりますからね。僕なんか1社も受からなかったです。
―― 始めから会社所属ではないんですね?
坂本:「時代が僕に追いついてない」と当時はイキがってました(笑)。後になってそのときのデモテープを聴いたら、「こんなもの絶対無理だ」というクオリティでしたね。でもその頃は「どこも入社できないならいいや、一人でやろう」と考えたんです。
目黒:そうすると、どうやって仕事を取ってこられたんですか?
坂本:フリーランスで、あちこち営業に行きましたね。31歳のときに、フリーだと大手の会社が契約してくれないと分かったので、株式会社ノイジークロークを作りました。うちの社内は、たまたまですがフリーあがりの人ばかりです。
―― 皆さんゲームやゲーム音楽が好きで、この仕事を選んだというものを勝手に想像していましたが、本当に色んなストーリーがあるんですね。ゲーム音楽を初めて意識した作品とかはありますか?
坂本:僕が一番最初に触ったゲームは『ゲームウォッチ』で、ほかに『カセットビジョン』も遊んでいましたけど、ゲーム音楽としては、やっぱりファミコンです。ファミコンで最初にやったのが『ゴルフ』で、「プゥウーン、プ」みたいな球の音がする(笑)。「まぁまぁ、ゲームなんて」と思っていたときに、『ドラゴンクエスト』が出てきてビックリしたんです。ピアノをやっていたしすぐ気付いたんですけど、「3つしか音が鳴っていなくて、ここまで表現出来るんだ」って感動して、「これ作りたい」と思いました。
―― 音ではなく、音楽を意識された瞬間ですね。
坂本:PCを買ってもらって、PLAY文というベーシックの言語を打ち込んで、友達に聴かせてニヤニヤする中学時代でしたね(笑)。当時、『ドラクエ』のCDとかには譜面が付いていたりしたんですよ。『そして伝説へ…(ドラゴンクエストIII)』なんかの速くて分からないところを、譜面を見ながらMML(Music Macro Language)で入れていって、完成品を聴いて満足、そんな中学時代。
―― それがゲーム音楽家としての下地になっていくわけですね。
坂本:でも、当時はどうやってこの仕事に就けるかとか、調べようがなかったですね。ファミリーコンピューターマガジンとかファミ通みたいな雑誌を買ってきて、出てきてもゲームのクリエイターさんなんですよ。たまに植松(伸夫)さんとかが出てくるくらい。「ゲーム音楽って自動生成じゃなくてちゃんと人が作ってるんだ」とビックリされる時代でしたから。
さて、そんな『真・女神転生』シリーズも、今年で25周年。最新タイトル『真・女神転生 DEEP STRANGE JOURNEY』が10月26日に発売となる。人気を博した世界観はそのままに、“真・女神転生史上、最もディープな悪魔体験!”というキャッチがつけられる最新作。ぜひ遊んでみよう!
『真・女神転生 DEEP STRANGE JOURNEY』には初回生産限定のスペシャルボックスが用意されている。多数の特典が魅力なのだが、ここでは「レアサントラ&メモリアルアレンジトラックス」、さらに言えばアトラスサウンドチームと外部のサウンドコンポーザーが参加、アレンジを施した「メモリアルアレンジトラックス」に注目したい。
長い年月のなかで、ゲームサウンドを取り巻く環境は大きく変化した。それは作る側からも聴く側からも同様で、ソフト・ハードの面であったり、音楽やゲームジャンルの流行り廃りであったり、とにかく様々。当時、高校生だった子が40歳を過ぎた大人になっているわけだから、当たり前と言えば当たり前だろう(なお、25年前は「クレヨンしんちゃん」のアニメ放送が始まった年だ/wiki調べ)。
ここから本題。25年前はそれほど昔の話だが、いまゲームサウンドを作っている現役のクリエイターは、そのころ何を聴いていたのだろうか? そして、昔といまでゲームサウンドはどう変わったのか? 今回、「メモリアルアレンジトラックス」に参加した4名にお話をうかがうことができたので、その模様をお伝えしたい。
なお、本記事はロングインタビューなので、『真・女神転生 DEEP STRANGE JOURNEY』のアレンジはどういったものかだけ知りたいという方は、最後のページを読んで欲しい。
―― 今日はお時間頂きまして有難うございます。読者の皆さんはご承知の通りだとは思いますが、改めて自己紹介をお願いします。
目黒:アトラスの目黒将司と申します。1996年に新卒で入社しました。『女神異聞録ペルソナ』が最初の仕事で、『ペルソナ』と『真・女神転生』を延々やってきました。
小塚:アトラスの小塚良太と申します。2007年に23歳で中途入社で入りまして、『ペルソナ』関連だったりをお手伝いさせていただいたりして、『真・女神転生IV』あたりから、本格的にコンポーザーをやらせていただいています。
柴田:ユニークノートの柴田徹也と申します。私は1997年にカプコンに入社しました。始めは金融系の会社に入社の予定だったのですが、入社せずに就職浪人して、ゲーム会社を受け直した形になります。カプコンでは『デビルメイクライ』シリーズとか『モンハン』シリーズを中心に担当して、2009年に独立、ユニークノートという会社を立ち上げて活動しています。
坂本:ノイジークロークの坂本英城と申します。1997年にこの仕事を始めて、今年でちょうど20年なのでお祝いのコメントがあれば、お待ちしております。代表作は『勇者のくせになまいきだ。』シリーズとか『タイムトラベラーズ』、『モンスターストライク』や『文豪とアルケミスト』『討鬼伝』シリーズなどをやっています。
―― 『真・女神転生』が1992年発売ですので、その当時はまだ仕事としてゲーム音楽に携わる前なのですね。その頃はどのような活動を?
坂本:25年前はシーケンサーだったり、当時Macintoshがやっと学生でも頑張れば買えるぐらいの価格になったので、打ち込みとかやってましたね。
―― どこかでゲーム音楽を目指すようになったキッカケはあったのでしょうか?
坂本:中学2年のときにファミコンと出会って、こういう仕事をしたいと思うようになりました。“ゲーム音楽家”になりたい、と。でも、途中でモテないということに気づいて(笑)。作曲してるんだよって言っても、それがゲームと分かると「ゲームぅ?」って怪訝な感じの反応をされたり。非常に言いだしにくい時代だったのが、今ようやく市民権を得て堂々と「ゲーム音楽作ってます」と言えるようになりました。
―― 柴田さんは金融系の会社から突然の方向転換ですが、音楽はもともと携わっていたのでしょうか?
柴田:元々ピアノを幼少期からやっていました。92年というとちょうど大学に入った年で、その頃はBOØWYとかが全盛期のバンドブームだったんですよ。それで自分はベースを弾いていたのですが、大学に入ったのをきっかけにジャズ研究会という全然女の子がいないオタクなサークルに入りました(笑)。そこで本格的に、ジャズとかを勉強したという感じです。
―― 作曲家ではなく、プレーヤーとして?
柴田:そうですね。実はピアニストとしてバークリーに留学しようとしていました。ですが、それまでずっと僕の音楽活動に反対していた父親が、「行って良いぞ」と言ってくれて。それで、親にずっと反発していたので、行くのは辞めようと思ったんです(笑)。
―― 反発心がエネルギーになっている部分もあったのかもしれませんね。
柴田:就職活動を始めて、金融系の会社やメーカーから内定を貰ったのですが、義理のお兄さんから「ゲーム音楽を作る仕事があるみたいだよ」と教わったんです。そこから作曲を始めて、バイトをしながらちまちま作って、それを会社に送っていましたね。
―― ゲーム自体はもともと遊んでいらっしゃったんですか?
柴田:僕らの年代は皆やってますよ。小学生のときにファミコンが出てきて、スーファミに変わって、PlayStation(以下、PS)に変わっていくっていう時代なので。もう本当に、やってない人はいないっていうぐらいですね。
坂本:やっていることを隠している奴はいましたね。「俺は作家一筋だ」とか言って、指にコントローラーのマメが出来てたり(笑)。
柴田:小学校のとき、ファミコンの音楽をピアノで弾くと、「凄い凄い!」って言われました。
坂本:ヒーロー扱いですね。柴田さんは最初に仕事で携われたハードってなんですか?
柴田:アーケード基板なんですよ。CPS2(CPシステムII)という、カプコンの『ストリートファイターII』の基板でした。家庭用としては、ドリームキャストになるのかな。
―― 目黒さん、小塚さんは入社前からアトラスのゲームは好きだったんですか?
小塚:自分はこの仕事に就くとは思っていないころに、たまたまなんですけど『ソウルハッカーズ』(デビルサマナー ソウルハッカーズ)に普通にゲームとしてハマっていました。それで、この音を含めての世界観が凄く良いなと思っていたので、アトラスという会社名は記憶に残っていました。いざこの仕事に就こうと思ったときに、アトラスがちょうど募集していて、「『ソウルハッカーズ』のアトラスだな」と思って入ったいきさつがあります。
―― 子どものころはいまのお仕事に就くとは思っていなかったということですが、音楽そのものは趣味だったりしたのでしょうか?
小塚:25年前は小学生くらいだと思うんですけど、その頃はまったく音楽は嫌いというか、音楽の授業も嫌いでしたね(笑)。スーパファミコン世代なのですが、『ファイナルファンタジー』とかの辺りからプレイを楽しんでいるうちに、音楽が耳に入って興味をもっていったというのがゲーム音楽の入り口でした。
目黒:自分は25周年に相応しくない話ですが、いっぱい会社に落ちて、20社目でようやくアトラスを見つけて、応募してなんとか入れてもらいました。アトラスの名前も、その時に初めて知ったんです。
―― あまりゲームはやっていなかった?
目黒:コンシューマーゲームは、ほぼやったことがないです。ファミコンも持っていなかったし、友達から借りて『ゼビウス』をやっていたぐらいですね。スーファミも、末期に父親と一緒にお金を出し合って、最初に買ったのが麻雀ゲームでした(笑)。中学校ぐらいに8bitパソコンを買ってもらったので、自分でプログラムを組んだり、ポケコンとかで大学の頃にゲームを作ったりしていました。ゲームを作るのはかなり好きだったんです。
―― そのころは音楽ではなく、ゲーム自体を作っていたんですね。
目黒:音楽は、PSやサターンになった当時、「内蔵音源ではなくCDから音楽が出るらしい」と聞いて、「凄い!」と思って。CDから出るということは、普通の音楽と一緒だなと思いまして、「じゃあゲーム会社だったら、サラリーマンとして毎月給料をもらえて、音楽を作って、しかもCDから音が出せる。これしかない!」と。カプコンも受けましたよ。でも、軒並み全部落ちまして。ようやくアトラスに拾ってもらえて、入ってみたら、内蔵音源だった。
坂本 柴田 小塚:(笑)
目黒:うちはストリーム再生はもう10年くらい経ってからでしたね。
坂本:ゲームがどういう作りかによって変わりますからね。僕なんか1社も受からなかったです。
―― 始めから会社所属ではないんですね?
坂本:「時代が僕に追いついてない」と当時はイキがってました(笑)。後になってそのときのデモテープを聴いたら、「こんなもの絶対無理だ」というクオリティでしたね。でもその頃は「どこも入社できないならいいや、一人でやろう」と考えたんです。
目黒:そうすると、どうやって仕事を取ってこられたんですか?
坂本:フリーランスで、あちこち営業に行きましたね。31歳のときに、フリーだと大手の会社が契約してくれないと分かったので、株式会社ノイジークロークを作りました。うちの社内は、たまたまですがフリーあがりの人ばかりです。
―― 皆さんゲームやゲーム音楽が好きで、この仕事を選んだというものを勝手に想像していましたが、本当に色んなストーリーがあるんですね。ゲーム音楽を初めて意識した作品とかはありますか?
坂本:僕が一番最初に触ったゲームは『ゲームウォッチ』で、ほかに『カセットビジョン』も遊んでいましたけど、ゲーム音楽としては、やっぱりファミコンです。ファミコンで最初にやったのが『ゴルフ』で、「プゥウーン、プ」みたいな球の音がする(笑)。「まぁまぁ、ゲームなんて」と思っていたときに、『ドラゴンクエスト』が出てきてビックリしたんです。ピアノをやっていたしすぐ気付いたんですけど、「3つしか音が鳴っていなくて、ここまで表現出来るんだ」って感動して、「これ作りたい」と思いました。
―― 音ではなく、音楽を意識された瞬間ですね。
坂本:PCを買ってもらって、PLAY文というベーシックの言語を打ち込んで、友達に聴かせてニヤニヤする中学時代でしたね(笑)。当時、『ドラクエ』のCDとかには譜面が付いていたりしたんですよ。『そして伝説へ…(ドラゴンクエストIII)』なんかの速くて分からないところを、譜面を見ながらMML(Music Macro Language)で入れていって、完成品を聴いて満足、そんな中学時代。
―― それがゲーム音楽家としての下地になっていくわけですね。
坂本:でも、当時はどうやってこの仕事に就けるかとか、調べようがなかったですね。ファミリーコンピューターマガジンとかファミ通みたいな雑誌を買ってきて、出てきてもゲームのクリエイターさんなんですよ。たまに植松(伸夫)さんとかが出てくるくらい。「ゲーム音楽って自動生成じゃなくてちゃんと人が作ってるんだ」とビックリされる時代でしたから。