公開日 2021/10/17 07:00
『レット・イット・ビー』の終わらない旅 -52年目の〈ゲット・バック・セッション〉-
最新リマスターから探るビートルズの真実
ザ・ビートルズ最後のオリジナル・アルバム『レット・イット・ビー』のスペシャルエディションが、10月15日に発売となる。ビートルズの50周年を記念して毎年リリースされてきたアニバーサリーシリーズも、この『レット・イット・ビー』で完結となる。
解散に至るメンバー間の不和を含みながらも、世界的に大ヒットを飛ばした『レット・イット・ビー』だが、このアルバムが誕生するにはさまざまな紆余曲折があった。今回のスペシャル版の目玉のひとつが、正規のフィル・スペクター版に加え、長らくお蔵入りになっていたグリン・ジョンズ版の未発表〈ゲット・バック・セッション〉が収められていることにある。
リアルタイムでビートルズの熱狂を体験し、その後も正規版のみならず“ブートレグ”も通じてビートルズを追い続けてきた大橋伸太郎氏にとって、『レット・イット・ビー』とはどんな体験だったのか。そして最新技術で蘇る『レット・イット・ビー』が明らかにする、ザ・ビートルズの新たな真実を探ろう。
【CONTENTS】
第1章 ほんとうの『レット・イット・ビー』を探して
第2章 52年の歳月を経て陽の目をみた〈ゲット・バック・セッション〉
第3章 スペクターの名人芸が浮かび上がる最新リマスター
第4章 「素顔のビートルズ」をテーマにしたグリン・ジョンズ版
第1章 ほんとうの『レット・イット・ビー』を探して
■映画公開と同時に発売された最後のオリジナルアルバム
1970年8月の夏の盛りの一日、中学二年の筆者は東京日比谷スバル座の前に出来た入場券を買う若者の長い列の中にいた。ザ・ビートルズ最後の主演映画『レット・イット・ビー』が単館ロードショー公開され、日本中からファンが詰めかけたのである。念のために申しておくと、今ではザ・ビートルズファン=オヤジ、だが、当時のファンはみな若者であった。
ザ・ビートルズが最後にリリースした公式のレギュラーレコーディングアルバム『レット・イット・ビー』は、イギリス同様に日本では写真集付きのボックスセットで発売され、価格は3,900円。発売は6月だったが、まだ手にしていなかったように記憶する。それでも映画は待ってくれない。江ノ電、横須賀線、山手線を乗り継ぎ、田舎者の中坊は汗をかきかき、有楽町にたどり着いた。なぜなら、ザ・ビートルズは解散してしまうからである。
ビートルズの解散が取り沙汰されるのと前後して、日本ににわかにビートルズブームが起きる。四人のソロアクティビティ、ことにジョンとヨーコ夫妻の日本への里帰り効果もあり、それまで「しょせんはグループサウンズの親玉。ビートルズなんて一時のハヤリ」とバカにしていた一般音楽ファンがビートルズの音楽の素晴しさに気付いたのである。そうしたマジョリティーが飛びついたのが直近のアルバム『レット・イット・ビー』だった。
英米では当時から『サージェント・ペパーズ』と『アビイ・ロード』の評価が高く、長い時間が経った現在では『ラバー・ソウル』『リヴォルバー』『ザ・ビートルズ(ホワイトアルバム)』等々ファンの世代や好みで多様化しているが、当時の日本の音楽ファンの関心は、直近の『レット・イット・ビー』に集中した。完成度は前作『アビイ・ロード』の方が高いが、『レット・イット・ビー』はタイトル曲はじめ有名なヒット曲を何曲も含んでいて取っ付きやすい。映画が全国公開されたことも後押しし『レット・イット・ビー』は大ベストセラーになる。
しかし映画を繰り返し見ていくと、「ユナイト映画サウンドトラック」と銘打たれているものの、映画の中の演奏の落差が大きくなる。音楽専門誌でバンドの不和に収拾がつかなくなり解散に至る複雑な事情を知って、心の中に一つの確信が生まれてくる。「違う。これは、ほんとうの『レット・イット・ビー』ではない…」と。それは筆者に限った話ではない。こうして、全世界のビートルズファンの、『レット・イット・ビー』探しの長い長い旅が始まったのである。
■〈ゲット・バック・セッション〉からの紆余曲折
ロック専門誌の記事でもウェブサイトでも、世に出なかった「幻のアルバムベスト20」がしばしば企画されるが、不動の第1位がザ・ビートルズの1969年のプロジェクト〈ゲット・バック〉である。ビーチボーイズの〈スマイル〉もピンク・フロイドの〈ハウスホールド・オブジェクツ〉も遠く及ばない。
なぜ〈ゲット・バック・セッション〉は「幻」となってしまったのか。熱心なファンはみなご承知と思うが、少々お付き合いいただきたい。
1969年1月、ザ・ビートルズの4人が揃い、ロンドンで新作アルバムのリハーサルを開始する。しかしその場所はEMIスタジオ(アビイロード・スタジオ)でなく、トゥイッケンナム映画スタジオだった。前作『ホワイトアルバム』レコーディング中に、リンゴが一時的にバンドを離脱するなど、険悪になった人間関係を修復しなければならなかった。
バンドが絆を取り戻すには、ライブをやるのが一番だ。しかし、音楽界の大御所となった彼等がコンサートをやるなら、会場選びから動員方法まで容易ではない。デビューから連れ添ったブライアン・エプスタインが前々年に急死してマネージャー不在が続いているのが痛かった。ステージ復帰は諦めて、メディアを使おうじゃないか。新作アルバムの製作過程を映画(当初はTV映画)にすることへ方向転換したのだった。
新作アルバムではバンドの自主プロデュースを押し進め、切った、貼ったのスタジオワークやオーバーダビングを止め、シンプルなロックンロールバンドへ立ち返ろうじゃないか。ポールの新曲「ゲット・バック」、つまり「原点復帰」がアルバム全体のコンセプトになり、リハーサルと16mmフィルム撮影が開始された。
しかし4人のすきま風は隠し切れず、録音場所がセヴィル・ロウのアップルの地下スタジオに移ってもセッションは難航を極める。とはいえ、1月30日のアップル社屋屋上での有名な「ルーフトップ・コンサート」をもってセッション終了、録音された音源はジョージ・マーティンでなく、ザ・ローリング・ストーンズの近作の、ソリッドで野性味溢れる音作りが評判となっている気鋭のレコーディングエンジニア、グリン・ジョンズに託された。
グリン・ジョンズは、ビートルズが希望する「ライブでダイレクトなロックサウンド」に忠実に、気が逸り過ぎたか完成版でないリハーサルのテイクやおしゃべりや冗談を交え、オーバーダビングやテープ編集をせずスタジオライブ風にラフに仕上げ、1969年5月28日、ビートルズ11枚目の新作アルバム、『ゲット・バック、ドント・レット・ミー・ダウン、ウィズ9アザーソングス』が完成した。
デビューアルバムと同じロンドンはマンチェスター・スクエアのEMIレコーズの階段で、やはり同じアンガス・マクビーンによって撮影された写真をジャケットにまとい、フォーマットはモノラル無しのステレオだけ、PCS7080というレコード番号も決まった。現在は「グリン・ジョーンズ、ファースト・コンピレーション。あるいはミックス」と通称されている。
しかし、テスト盤を渡されたビートルズの4人は愕然とする。録音時の演奏のテンションの低さが露呈し、近作の音楽的な密度に遠く及ばない散漫な作品がそこにあった。「おい、どうする?」「出しちまえよ」「いや、まずいぜ」。
ビートルズは新作の発売の中止を決め、アルバムは棚上げ状態になる。しかしビートルズとて、EMI傘下のアップルに所属しレコード発売契約を履行する義務のある、いちアーティストである。バンドはアップルの自社スタジオをあきらめ、古巣のEMIスタジオへ帰ることにした。そこには音楽上の養父ジョージ・マーティンが待っていた。そうして誕生した新作アルバムが『アビイ・ロード』だった。
■『アビイ・ロード』は全世界で大ヒット。しかし…
これで最後になるかもしれない崖っぷち感から一転、気合いが入った演奏を繰り広げ、小品を連結曲にしたアレンジの成功もあって、『アビイ・ロード』は全世界で売れた。
「まだ、俺たちいけるかもよ」。しかし、安堵している余裕はない。アップルが多額の資金を投下した以上、録音済みの音源を何とかレコードにまとめあげて発売しなければいけない。ビートルズはグリン・ジョンズにアルバム『ゲット・バック』のミキシングと構成をやり直すよう指示した。
おりしも、アルバムのリハーサル、レコーディングと同時進行で製作されたドキュメンタリー映画が完成した。最初のミックスで使われなかったが、ジョージの歌に合わせてジョンとヨーコがワルツを踊る姿が印象的な「アイ・ミー・マイン」、ジョンの自信作だが、世界野生動物保護基金のチャリティーアルバムに提供したっきり正式に発表する機会のなかった「アクロス・ザ・ユニヴァース」が新たに追加された。逆にポール・マッカートニーがソロアルバムでアレンジを変えて再録していることが分かり「テディ・ボーイ」を外れた。こうして2つ目の「レット・イット・ビー」が完成する。1970年1月5日のことだ。
プローモーショナルコピーが一部の米英の音楽関係者に配られ、評判の良かった「レット・イット・ビー」が、賞味期限切れ感のある「ゲット・バック」にとって替わってタイトル曲になる。「グリン・ジョンズ、セカンド・コンピレーション。あるいはミックス」と称されている。しかし、選曲のバラエティは増したものの、全体の印象は変わり映えなく、ビートルズはやはり首を縦に降らなかった。映画が完成、世界公開が迫っていた。サウンドトラックレコードも同時に発売されなければならない。ザ・ビートルズは追いつめられていた。そこにラスボスが登場する。
■最終ミックスはフィル・スペクターに委ねられた
フィル・スペクターは1960年代にウォール・オブ・サウンド(音の壁)と名付けられた分厚いアレンジとサウンド効果で一世を風靡、ザ・ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」、アイク&ティナ・ターナーの「リバー・ディープ、マウンテン・ハイ」、ザ・クリスタルズの「ダ・ドゥー、ロン、ロン」等々多くのヒット曲を持つアメリカ人プロデューサーである。
彼の長年のファンだったジョージに引き合わせられ、ソロシングル「インスタント・カーマ」のレコーディングに起用、その出来映えに大いに気を良くしていたジョンは、膠着状態にあるアルバムをフィル・スペクターに任せてみたらどうだろうと思いつく。かくして、テープは1970年3月23日にスペクターに委ねられた。ポールもジョージ・マーティンもそれを知らなかった。
スペクターはビートルズの起用に答えるべく、猛然と作業に取り掛かる。一部の曲は別テイクにさし変え、多くの曲を多重録音とエコー効果で音を厚くシャープにした。「アイ・ミー・マイン」と「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」はリチャード・ヒューソン、「アクロス・ザ・ユニヴァース」はブライアン・ロジャースの筆でコーラスまで含むと総勢50名の豪華なオーケストレーションが施された。つまりこの時点で「素のままのバンド・サウンド」というコンセプトは放棄された。
スペクターの張り切りようというかプレッシャーは相当だったようで、EMIスタジオでのオーケストラのダビングは語りぐさである。思うようにいかずエンジニアやオーケストラ奏者にキレて罵詈雑言を浴びせかけるスペクターに驚き呆れ、誇り高きEMIの管弦楽奏者は演奏を中断しバランスエンジニアは家に帰る始末。それでもダビングにただひとり立ち会ったリンゴのとりなしとスペクターの謝罪で、なんとかオーケストラ収録が終わった。
そうして、4月2日に「ゲット・バック」の大きく変貌した3つ目のバージョン『レット・イット・ビー』が完成。1970年5月にイギリスで、続いて世界で発売された。レコーディング開始から実に1年4カ月後の迷走の末だった。ステレオのみの発売で、レコード番号はイギリスオリジナルがアップルPXS-1、アメリカがアップルAR34001、日本では東芝AP-9009。イギリス、日本では初回版は写真集が付属したボックスセットとして発売された。
解散に至るメンバー間の不和を含みながらも、世界的に大ヒットを飛ばした『レット・イット・ビー』だが、このアルバムが誕生するにはさまざまな紆余曲折があった。今回のスペシャル版の目玉のひとつが、正規のフィル・スペクター版に加え、長らくお蔵入りになっていたグリン・ジョンズ版の未発表〈ゲット・バック・セッション〉が収められていることにある。
リアルタイムでビートルズの熱狂を体験し、その後も正規版のみならず“ブートレグ”も通じてビートルズを追い続けてきた大橋伸太郎氏にとって、『レット・イット・ビー』とはどんな体験だったのか。そして最新技術で蘇る『レット・イット・ビー』が明らかにする、ザ・ビートルズの新たな真実を探ろう。
【CONTENTS】
第1章 ほんとうの『レット・イット・ビー』を探して
第2章 52年の歳月を経て陽の目をみた〈ゲット・バック・セッション〉
第3章 スペクターの名人芸が浮かび上がる最新リマスター
第4章 「素顔のビートルズ」をテーマにしたグリン・ジョンズ版
第1章 ほんとうの『レット・イット・ビー』を探して
■映画公開と同時に発売された最後のオリジナルアルバム
1970年8月の夏の盛りの一日、中学二年の筆者は東京日比谷スバル座の前に出来た入場券を買う若者の長い列の中にいた。ザ・ビートルズ最後の主演映画『レット・イット・ビー』が単館ロードショー公開され、日本中からファンが詰めかけたのである。念のために申しておくと、今ではザ・ビートルズファン=オヤジ、だが、当時のファンはみな若者であった。
ザ・ビートルズが最後にリリースした公式のレギュラーレコーディングアルバム『レット・イット・ビー』は、イギリス同様に日本では写真集付きのボックスセットで発売され、価格は3,900円。発売は6月だったが、まだ手にしていなかったように記憶する。それでも映画は待ってくれない。江ノ電、横須賀線、山手線を乗り継ぎ、田舎者の中坊は汗をかきかき、有楽町にたどり着いた。なぜなら、ザ・ビートルズは解散してしまうからである。
ビートルズの解散が取り沙汰されるのと前後して、日本ににわかにビートルズブームが起きる。四人のソロアクティビティ、ことにジョンとヨーコ夫妻の日本への里帰り効果もあり、それまで「しょせんはグループサウンズの親玉。ビートルズなんて一時のハヤリ」とバカにしていた一般音楽ファンがビートルズの音楽の素晴しさに気付いたのである。そうしたマジョリティーが飛びついたのが直近のアルバム『レット・イット・ビー』だった。
英米では当時から『サージェント・ペパーズ』と『アビイ・ロード』の評価が高く、長い時間が経った現在では『ラバー・ソウル』『リヴォルバー』『ザ・ビートルズ(ホワイトアルバム)』等々ファンの世代や好みで多様化しているが、当時の日本の音楽ファンの関心は、直近の『レット・イット・ビー』に集中した。完成度は前作『アビイ・ロード』の方が高いが、『レット・イット・ビー』はタイトル曲はじめ有名なヒット曲を何曲も含んでいて取っ付きやすい。映画が全国公開されたことも後押しし『レット・イット・ビー』は大ベストセラーになる。
しかし映画を繰り返し見ていくと、「ユナイト映画サウンドトラック」と銘打たれているものの、映画の中の演奏の落差が大きくなる。音楽専門誌でバンドの不和に収拾がつかなくなり解散に至る複雑な事情を知って、心の中に一つの確信が生まれてくる。「違う。これは、ほんとうの『レット・イット・ビー』ではない…」と。それは筆者に限った話ではない。こうして、全世界のビートルズファンの、『レット・イット・ビー』探しの長い長い旅が始まったのである。
■〈ゲット・バック・セッション〉からの紆余曲折
ロック専門誌の記事でもウェブサイトでも、世に出なかった「幻のアルバムベスト20」がしばしば企画されるが、不動の第1位がザ・ビートルズの1969年のプロジェクト〈ゲット・バック〉である。ビーチボーイズの〈スマイル〉もピンク・フロイドの〈ハウスホールド・オブジェクツ〉も遠く及ばない。
なぜ〈ゲット・バック・セッション〉は「幻」となってしまったのか。熱心なファンはみなご承知と思うが、少々お付き合いいただきたい。
1969年1月、ザ・ビートルズの4人が揃い、ロンドンで新作アルバムのリハーサルを開始する。しかしその場所はEMIスタジオ(アビイロード・スタジオ)でなく、トゥイッケンナム映画スタジオだった。前作『ホワイトアルバム』レコーディング中に、リンゴが一時的にバンドを離脱するなど、険悪になった人間関係を修復しなければならなかった。
バンドが絆を取り戻すには、ライブをやるのが一番だ。しかし、音楽界の大御所となった彼等がコンサートをやるなら、会場選びから動員方法まで容易ではない。デビューから連れ添ったブライアン・エプスタインが前々年に急死してマネージャー不在が続いているのが痛かった。ステージ復帰は諦めて、メディアを使おうじゃないか。新作アルバムの製作過程を映画(当初はTV映画)にすることへ方向転換したのだった。
新作アルバムではバンドの自主プロデュースを押し進め、切った、貼ったのスタジオワークやオーバーダビングを止め、シンプルなロックンロールバンドへ立ち返ろうじゃないか。ポールの新曲「ゲット・バック」、つまり「原点復帰」がアルバム全体のコンセプトになり、リハーサルと16mmフィルム撮影が開始された。
しかし4人のすきま風は隠し切れず、録音場所がセヴィル・ロウのアップルの地下スタジオに移ってもセッションは難航を極める。とはいえ、1月30日のアップル社屋屋上での有名な「ルーフトップ・コンサート」をもってセッション終了、録音された音源はジョージ・マーティンでなく、ザ・ローリング・ストーンズの近作の、ソリッドで野性味溢れる音作りが評判となっている気鋭のレコーディングエンジニア、グリン・ジョンズに託された。
グリン・ジョンズは、ビートルズが希望する「ライブでダイレクトなロックサウンド」に忠実に、気が逸り過ぎたか完成版でないリハーサルのテイクやおしゃべりや冗談を交え、オーバーダビングやテープ編集をせずスタジオライブ風にラフに仕上げ、1969年5月28日、ビートルズ11枚目の新作アルバム、『ゲット・バック、ドント・レット・ミー・ダウン、ウィズ9アザーソングス』が完成した。
デビューアルバムと同じロンドンはマンチェスター・スクエアのEMIレコーズの階段で、やはり同じアンガス・マクビーンによって撮影された写真をジャケットにまとい、フォーマットはモノラル無しのステレオだけ、PCS7080というレコード番号も決まった。現在は「グリン・ジョーンズ、ファースト・コンピレーション。あるいはミックス」と通称されている。
しかし、テスト盤を渡されたビートルズの4人は愕然とする。録音時の演奏のテンションの低さが露呈し、近作の音楽的な密度に遠く及ばない散漫な作品がそこにあった。「おい、どうする?」「出しちまえよ」「いや、まずいぜ」。
ビートルズは新作の発売の中止を決め、アルバムは棚上げ状態になる。しかしビートルズとて、EMI傘下のアップルに所属しレコード発売契約を履行する義務のある、いちアーティストである。バンドはアップルの自社スタジオをあきらめ、古巣のEMIスタジオへ帰ることにした。そこには音楽上の養父ジョージ・マーティンが待っていた。そうして誕生した新作アルバムが『アビイ・ロード』だった。
■『アビイ・ロード』は全世界で大ヒット。しかし…
これで最後になるかもしれない崖っぷち感から一転、気合いが入った演奏を繰り広げ、小品を連結曲にしたアレンジの成功もあって、『アビイ・ロード』は全世界で売れた。
「まだ、俺たちいけるかもよ」。しかし、安堵している余裕はない。アップルが多額の資金を投下した以上、録音済みの音源を何とかレコードにまとめあげて発売しなければいけない。ビートルズはグリン・ジョンズにアルバム『ゲット・バック』のミキシングと構成をやり直すよう指示した。
おりしも、アルバムのリハーサル、レコーディングと同時進行で製作されたドキュメンタリー映画が完成した。最初のミックスで使われなかったが、ジョージの歌に合わせてジョンとヨーコがワルツを踊る姿が印象的な「アイ・ミー・マイン」、ジョンの自信作だが、世界野生動物保護基金のチャリティーアルバムに提供したっきり正式に発表する機会のなかった「アクロス・ザ・ユニヴァース」が新たに追加された。逆にポール・マッカートニーがソロアルバムでアレンジを変えて再録していることが分かり「テディ・ボーイ」を外れた。こうして2つ目の「レット・イット・ビー」が完成する。1970年1月5日のことだ。
プローモーショナルコピーが一部の米英の音楽関係者に配られ、評判の良かった「レット・イット・ビー」が、賞味期限切れ感のある「ゲット・バック」にとって替わってタイトル曲になる。「グリン・ジョンズ、セカンド・コンピレーション。あるいはミックス」と称されている。しかし、選曲のバラエティは増したものの、全体の印象は変わり映えなく、ビートルズはやはり首を縦に降らなかった。映画が完成、世界公開が迫っていた。サウンドトラックレコードも同時に発売されなければならない。ザ・ビートルズは追いつめられていた。そこにラスボスが登場する。
■最終ミックスはフィル・スペクターに委ねられた
フィル・スペクターは1960年代にウォール・オブ・サウンド(音の壁)と名付けられた分厚いアレンジとサウンド効果で一世を風靡、ザ・ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」、アイク&ティナ・ターナーの「リバー・ディープ、マウンテン・ハイ」、ザ・クリスタルズの「ダ・ドゥー、ロン、ロン」等々多くのヒット曲を持つアメリカ人プロデューサーである。
彼の長年のファンだったジョージに引き合わせられ、ソロシングル「インスタント・カーマ」のレコーディングに起用、その出来映えに大いに気を良くしていたジョンは、膠着状態にあるアルバムをフィル・スペクターに任せてみたらどうだろうと思いつく。かくして、テープは1970年3月23日にスペクターに委ねられた。ポールもジョージ・マーティンもそれを知らなかった。
スペクターはビートルズの起用に答えるべく、猛然と作業に取り掛かる。一部の曲は別テイクにさし変え、多くの曲を多重録音とエコー効果で音を厚くシャープにした。「アイ・ミー・マイン」と「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」はリチャード・ヒューソン、「アクロス・ザ・ユニヴァース」はブライアン・ロジャースの筆でコーラスまで含むと総勢50名の豪華なオーケストレーションが施された。つまりこの時点で「素のままのバンド・サウンド」というコンセプトは放棄された。
スペクターの張り切りようというかプレッシャーは相当だったようで、EMIスタジオでのオーケストラのダビングは語りぐさである。思うようにいかずエンジニアやオーケストラ奏者にキレて罵詈雑言を浴びせかけるスペクターに驚き呆れ、誇り高きEMIの管弦楽奏者は演奏を中断しバランスエンジニアは家に帰る始末。それでもダビングにただひとり立ち会ったリンゴのとりなしとスペクターの謝罪で、なんとかオーケストラ収録が終わった。
そうして、4月2日に「ゲット・バック」の大きく変貌した3つ目のバージョン『レット・イット・ビー』が完成。1970年5月にイギリスで、続いて世界で発売された。レコーディング開始から実に1年4カ月後の迷走の末だった。ステレオのみの発売で、レコード番号はイギリスオリジナルがアップルPXS-1、アメリカがアップルAR34001、日本では東芝AP-9009。イギリス、日本では初回版は写真集が付属したボックスセットとして発売された。
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