公開日 2008/02/04 12:26
【連載】PIT INNその歴史とミュージシャン − 第1回:佐藤良武氏が語る開店までの軌道
ピットインは最初のコンセプトと異なり、一人歩きし
お客さんとミュージシャンに育てられ成長していった
新宿「ピットイン」オープン!
最初は車好きのための喫茶店だったが大誤算からジャズライブハウスに転身
1965年12月24日のクリスマス・イヴ。ライブハウスの草分けにして、ジャズシーンの殿堂的な存在である「ピットイン」は新宿の裏通りにオープンした。弱冠20歳、若きオーナー佐藤良武さんが抱いていた青写真に“ライブハウス”の文字は一切なく、それどころか本人はジャズをよく知らない成城大学の学生だった。
− 大学に進学した時、もともと車が好きでしたので自動車部に入りました。その頃、車がモータースポーツとして発展しつつある時代で、ラリーや整備を競う大会に参加していました。クラブ活動をしているうちに、車好きが集まるような喫茶店をやりたいと思いましてね。両親が新宿でやっている洋品店のデッドスペースを借りて始めることにしたわけです。20坪弱のスペースでした。
店名の由来は、レース中に車が給油したりタイヤ交換したりする「ピットイン」から来ています。ただし“PIT”は 二文字。バランスが悪いので三文字になるよう、“INN”にしました。辞書を引いて知ったのですが、PITは穴蔵、INNには宿という意味があり、直訳すると「穴蔵の宿」となります。まったくそんなつもりはなかったのですが、後にジャズのライブハウスになる時、偶然そういう音楽にマッチしたヒップな名前だったようです。
ピットインは、都内でも屈指のショッピングストリートとして賑わう新宿通りの裏手でスタートした。その12年後に一本道を隔てた向こうのビルに移り、偶然にも同じ周期で現在営業している新宿2丁目に移る。その滑り出しは順調とはいえず、予想していなかった大誤算から、「ライブハウス」としてのピットインが誕生した。
− 車好きが集まる喫茶店としては大失敗でした。裏通りでしたから、車が趣味のお客さんが来るわけがないんですよ。でも一度始めたら止めないぞ、という信念は持っていました。意外なことに、流しているジャズのBGM聴きたさにお客さんが来ましてね。当時、ジャズ喫茶が大ブームでしたからね。
それとはまったく別に、お客さんの中にジャズミュージシャンの卵がいました。彼らは演奏する場所がなかったんです。生演奏の場はダンスホールとかキャバレーしかなくて、自分たちは好きな演奏ができない。あそこは、オーナーが若いから騙せそうだ(笑)という感じでやって来ました。
時代がライブハウスを求めておりピットインに演奏者が集まってきた
フロアにステージ用のスペースを作り、1ドリンク250円でスタート。佐藤さんは、最初にステージに立ったのは、渡辺貞夫の弟で、ドラマーの渡辺文男だったと記憶する。渡辺貞夫は、62年にアメリカのバークリー音楽大学へ行って本場のジャズを吸収し、3年後の65年11月に帰国する。
− その当時、ライブの拠点としては銀座に「ジャズ・ギャラリー8」という店がありまして、貞夫さんは帰国したその日に出演したんです。後で聞いた話ですが、日本のジャズシーンを盛り上げ、若手ミュージシャンの地位を向上させるというような強い意識があったようです。だから1966年は、日本のモダンジャズが幕を開けた年だといっていいと思います。大人気だったビッグ4や白木秀雄さんたちはもっとスイング色が強かったですね。
ある日、事情はよくわかりませんが「ギャラリー8」が店を閉めてしまいました。ミュージシャンの行く場所がなくなったところへ「なんだか新宿で好きなことやらせてくれるライブハウスがあるらしい」(笑)という噂が広まって、彼らはこちらに集まって来たのです。まあ、それでもずっと赤字でした。家賃不要だから維持できたようなものです。
「ピットイン」とミュージシャン
新宿がライブシーンを牽引し共に文化・芸術が育っていった
1960年代後半から70年代にかけて、ジャズ喫茶の隆盛時代を迎えたが、ライブハウスは極端に少なかった。「ピットイン」が開店してから後、歌舞伎町に「タロー」、銀座に「ジャンク」ができ、この三軒がジャズの生演奏を聴けるスポットとして東京のライブシーンを10年にも渡って牽引していく。
− その当時、新宿の熱気といったら凄かったですよ。若々しい活力に溢れていました。お客さんは芸術や演劇、文学などを志望する学生が多かったようです。ジャズを純粋に真剣に受け止めていましたね。文化人も新宿に寄り集まっていました。紀伊國屋書店で本を買い、武蔵野館で映画を観て、ゴールデン街で飲む。文化・芸術が育つ土壌がありました。
そんな背景ですので、ピットインは私の意向とは関係なく、一人歩きして育っていったという印象はあります。お客さんとミュージシャンに育てられ、あの時代とあの場所にうまくミートしていたんだと思います。
演奏には口をはさまず、最高のパフォーマンスをしてもらう
その反面、いい音への音響設備と環境には徹底的にこだわった
ステージはミュージシャンにまかせお客を入れることを徹底的に貫いた
若き佐藤さんについて、当時を知るミュージシャンは口を揃えて言う。「素晴らしいことに、演奏にまったく口出ししてこなかった」。
− なぜかというと私はその当時ジャズのことはよく分からなかったんです。分からないなりに、店を運営する哲学ができてくる。ジャズに詳しいオーナーだったら、出演者を選り好みするだろうし、それなりの蘊蓄をたれるようになる。音楽志向に偏りができてきます。私はミュージシャンに「ステージではどうぞお好きなように、あなた方はその時の集大成、今ベストな演奏を聴かせてください」とお願いし、私の仕事はお客さんを入れることと割り切っていました。それを徹底して貫き通しました。
ライブハウスの運営哲学はさらに続く。
− 音響設備にもお金をかけましたね。お客さんから「ピットインが一番いい音だ」、ミュージシャンも「あそこがやりやすい」と言われるようにしたかったのです。やっぱりアナログ的な音がいいですよ。最高なのはスピーカーがなくて、生音だけで聴けるという状況です。つまり設備のポイントは、いかに生の音を再現できるかだと思います。また、飾り立てるような内装にしていません。雰囲気に色がついてしまいますから。ミュージシャンの世界にその場所が染まらないといけません。お客さんのそばで従業員がうろちょろしてもいけませんね。最初に料金を払い、あとはセルフでお好きなようにとお願いしています。ミュージシャンの自由、お客さんの自由、仲を取り持つのが私どもの仕事です。
帰国した渡辺貞夫への出演依頼が人生のターニングポイントとなる
開店当時のエピソードに戻る。佐藤さんは渡辺貞夫との出会いが自分の人生を左右する決定的な出来事になった。
− どんな雑誌を読んでも、誰の評判を聞いても、ジャズのトッププレーヤーは貞夫さんということで意見が一致していました。そこで出演してもらいたいと思って頼みに行ったのです。何をしゃべっていいのかわからなくてね。ジャズについて不勉強ですけど、とにかく一生懸命やりますと頭を下げたこと憶えています。貞夫さんにしてみれば、一から教えてやろうという気持ちもあったのではないでしょうか。
ピットインのピアノは当初アップライトでした。「グランドにしなさい」と貞夫さんから言われましてね。渋谷のヤマハに行ったら、当時130万円ぐらいの貴重品ですから、すぐには売ってもらえない。半年待ってくれと言われました。興信所が払えるか調査するわけです。貞夫さんに、そのことを説明したら、次の日にドーンとピアノが届きました。貞夫さんが話をしてくれたわけです。「ピットインが払えないのなら、私が保証する」と言ってくれたようです。それはもうたいへん感激しました。それまでの私はジャズの世界で生きていくことに半信半疑でした。その時ですよ「よしやっていこう」と思ったのは。人生の転機だったと思います。それは店をオープンした時よりも、深い意味を持つターニングポイントでした。
エルヴィン・ジョーンズとの出会い − それは、あまりに運命的な出来事
ピットインが開店してちょうど1年が経過。このライブハウスの名前が日本中に轟く出来事があった。それは日本ジャズ史に刻まれた事件だった。
− 66年11月に、三大ドラマーのドラム合戦という演目でエルヴィン・ジョーンズ、トニー・ウィリアムス、アート・ブレイキーが揃って来日しました。その時、麻薬Gメンが動き出しまして、エルヴィンに容疑がかかったのです。しかし、やっていなかったので認めなかったところ、そんなはずはないと日本に勾留され、裁判になったわけです。
その裁判費用を捻出するために、ピットインでライブ出演したらどうかと話がありまして、12月から翌年1月まで日本の若手ミュージシャンとセッションを重ねることになりました。
すると「あのコルトレーンとやっていたエルヴィンだ」ということで日本中のジャズファンがやって来ました。口コミで広がったんですね。一晩の売り上げは確か10万円以上です。普段250円のところ1000円でやっていましたから、100人は来ていた勘定になります。20坪40席のスペースがもうギュウギュウですよ。ギャラは全部エルヴィンに渡しました。
そういえば渡辺文男さんがバスドラを両手で押さえていたのを憶えています。エルヴィンはまだ40歳。もの凄いパワーでね。どんどん前にせり出してきてしまうんです。曲はすべて有名なスタンダードでしたけど、それは完全にエルヴィンの世界でした。結局、1月に彼は証拠不十分でありながらも、強制送還になってしまいました。
エルヴィン・ジョーンズはそれから12年もの間、日本に入国することができなかった。再来日したのが1978年。ジャズに対する功績と薬物に対してクリーンであることがアメリカで認められ、やっと日本の審議官の許可が下りた。
− 再来日の時は、私が身元引受人になりました。入国管理局はチェックが厳しくて、すべてのスケジュールと居場所をはっきりさせ、ピットインの見取り図なども提出しました。しかし一度入国した前例が残れば、もうその必要がなくなりまして、以後、何度も日本公演を行いました。そのうちエルヴィンは、自分のバンドに日本人ミュージシャンを入れるようになりました。その実力を内外に知らせたいという思いがあったのだろうと思いますね。
やはり思い出に残る1枚といえばエルヴィンのライブアルバム
佐藤さんが最も思い出に残る1枚のアルバムとして取りだしたのが「エルヴィン・ジョーンズ・ジャズ・マシーン・ライヴ・アット・ピットイン」だ。レコーディングは85年8月1日。それはピットインが創業して20周年に当たっている。
− 現在「ライブ・アット・ピットイン」というタイトルがつくアルバムは何十枚もあるんですが、一番印象に残っています。制作者は私です。エルヴィンのアルバムを制作する長年の夢が、これでかないましてね。それまではレコードを作るとなると、機材が大規模でたいへんでしたが、この頃からそれほど難しいことではなくなったんですね。
バンドのピアニストは辛島文雄です。彼は九州から腕一本で単身上京して、ピットインに出演できるようになった人です。私が彼をエルヴィンに推薦してバンドに入れてもらいました。世界中をツアーして、アルバムはちょうど帰国した時の演奏になります。エルヴィン・バンドに入った、自分の推薦したミュージシャンのお披露目となるわけです。いろいろな意味で、このアルバムにはものすごく思い入れがあります。ですから、今回好きなレコードとしては、この一枚を選んで持ってきました。
(第2回につづく)
インタビュー・文 田中伊佐資
写真:田代法生
お客さんとミュージシャンに育てられ成長していった
最初は車好きのための喫茶店だったが大誤算からジャズライブハウスに転身
1965年12月24日のクリスマス・イヴ。ライブハウスの草分けにして、ジャズシーンの殿堂的な存在である「ピットイン」は新宿の裏通りにオープンした。弱冠20歳、若きオーナー佐藤良武さんが抱いていた青写真に“ライブハウス”の文字は一切なく、それどころか本人はジャズをよく知らない成城大学の学生だった。
− 大学に進学した時、もともと車が好きでしたので自動車部に入りました。その頃、車がモータースポーツとして発展しつつある時代で、ラリーや整備を競う大会に参加していました。クラブ活動をしているうちに、車好きが集まるような喫茶店をやりたいと思いましてね。両親が新宿でやっている洋品店のデッドスペースを借りて始めることにしたわけです。20坪弱のスペースでした。
店名の由来は、レース中に車が給油したりタイヤ交換したりする「ピットイン」から来ています。ただし“PIT”は 二文字。バランスが悪いので三文字になるよう、“INN”にしました。辞書を引いて知ったのですが、PITは穴蔵、INNには宿という意味があり、直訳すると「穴蔵の宿」となります。まったくそんなつもりはなかったのですが、後にジャズのライブハウスになる時、偶然そういう音楽にマッチしたヒップな名前だったようです。
ピットインは、都内でも屈指のショッピングストリートとして賑わう新宿通りの裏手でスタートした。その12年後に一本道を隔てた向こうのビルに移り、偶然にも同じ周期で現在営業している新宿2丁目に移る。その滑り出しは順調とはいえず、予想していなかった大誤算から、「ライブハウス」としてのピットインが誕生した。
− 車好きが集まる喫茶店としては大失敗でした。裏通りでしたから、車が趣味のお客さんが来るわけがないんですよ。でも一度始めたら止めないぞ、という信念は持っていました。意外なことに、流しているジャズのBGM聴きたさにお客さんが来ましてね。当時、ジャズ喫茶が大ブームでしたからね。
それとはまったく別に、お客さんの中にジャズミュージシャンの卵がいました。彼らは演奏する場所がなかったんです。生演奏の場はダンスホールとかキャバレーしかなくて、自分たちは好きな演奏ができない。あそこは、オーナーが若いから騙せそうだ(笑)という感じでやって来ました。
時代がライブハウスを求めておりピットインに演奏者が集まってきた
フロアにステージ用のスペースを作り、1ドリンク250円でスタート。佐藤さんは、最初にステージに立ったのは、渡辺貞夫の弟で、ドラマーの渡辺文男だったと記憶する。渡辺貞夫は、62年にアメリカのバークリー音楽大学へ行って本場のジャズを吸収し、3年後の65年11月に帰国する。
− その当時、ライブの拠点としては銀座に「ジャズ・ギャラリー8」という店がありまして、貞夫さんは帰国したその日に出演したんです。後で聞いた話ですが、日本のジャズシーンを盛り上げ、若手ミュージシャンの地位を向上させるというような強い意識があったようです。だから1966年は、日本のモダンジャズが幕を開けた年だといっていいと思います。大人気だったビッグ4や白木秀雄さんたちはもっとスイング色が強かったですね。
ある日、事情はよくわかりませんが「ギャラリー8」が店を閉めてしまいました。ミュージシャンの行く場所がなくなったところへ「なんだか新宿で好きなことやらせてくれるライブハウスがあるらしい」(笑)という噂が広まって、彼らはこちらに集まって来たのです。まあ、それでもずっと赤字でした。家賃不要だから維持できたようなものです。
「ピットイン」とミュージシャン
新宿がライブシーンを牽引し共に文化・芸術が育っていった
1960年代後半から70年代にかけて、ジャズ喫茶の隆盛時代を迎えたが、ライブハウスは極端に少なかった。「ピットイン」が開店してから後、歌舞伎町に「タロー」、銀座に「ジャンク」ができ、この三軒がジャズの生演奏を聴けるスポットとして東京のライブシーンを10年にも渡って牽引していく。
− その当時、新宿の熱気といったら凄かったですよ。若々しい活力に溢れていました。お客さんは芸術や演劇、文学などを志望する学生が多かったようです。ジャズを純粋に真剣に受け止めていましたね。文化人も新宿に寄り集まっていました。紀伊國屋書店で本を買い、武蔵野館で映画を観て、ゴールデン街で飲む。文化・芸術が育つ土壌がありました。
そんな背景ですので、ピットインは私の意向とは関係なく、一人歩きして育っていったという印象はあります。お客さんとミュージシャンに育てられ、あの時代とあの場所にうまくミートしていたんだと思います。
演奏には口をはさまず、最高のパフォーマンスをしてもらう
その反面、いい音への音響設備と環境には徹底的にこだわった
ステージはミュージシャンにまかせお客を入れることを徹底的に貫いた
若き佐藤さんについて、当時を知るミュージシャンは口を揃えて言う。「素晴らしいことに、演奏にまったく口出ししてこなかった」。
− なぜかというと私はその当時ジャズのことはよく分からなかったんです。分からないなりに、店を運営する哲学ができてくる。ジャズに詳しいオーナーだったら、出演者を選り好みするだろうし、それなりの蘊蓄をたれるようになる。音楽志向に偏りができてきます。私はミュージシャンに「ステージではどうぞお好きなように、あなた方はその時の集大成、今ベストな演奏を聴かせてください」とお願いし、私の仕事はお客さんを入れることと割り切っていました。それを徹底して貫き通しました。
ライブハウスの運営哲学はさらに続く。
− 音響設備にもお金をかけましたね。お客さんから「ピットインが一番いい音だ」、ミュージシャンも「あそこがやりやすい」と言われるようにしたかったのです。やっぱりアナログ的な音がいいですよ。最高なのはスピーカーがなくて、生音だけで聴けるという状況です。つまり設備のポイントは、いかに生の音を再現できるかだと思います。また、飾り立てるような内装にしていません。雰囲気に色がついてしまいますから。ミュージシャンの世界にその場所が染まらないといけません。お客さんのそばで従業員がうろちょろしてもいけませんね。最初に料金を払い、あとはセルフでお好きなようにとお願いしています。ミュージシャンの自由、お客さんの自由、仲を取り持つのが私どもの仕事です。
帰国した渡辺貞夫への出演依頼が人生のターニングポイントとなる
開店当時のエピソードに戻る。佐藤さんは渡辺貞夫との出会いが自分の人生を左右する決定的な出来事になった。
− どんな雑誌を読んでも、誰の評判を聞いても、ジャズのトッププレーヤーは貞夫さんということで意見が一致していました。そこで出演してもらいたいと思って頼みに行ったのです。何をしゃべっていいのかわからなくてね。ジャズについて不勉強ですけど、とにかく一生懸命やりますと頭を下げたこと憶えています。貞夫さんにしてみれば、一から教えてやろうという気持ちもあったのではないでしょうか。
ピットインのピアノは当初アップライトでした。「グランドにしなさい」と貞夫さんから言われましてね。渋谷のヤマハに行ったら、当時130万円ぐらいの貴重品ですから、すぐには売ってもらえない。半年待ってくれと言われました。興信所が払えるか調査するわけです。貞夫さんに、そのことを説明したら、次の日にドーンとピアノが届きました。貞夫さんが話をしてくれたわけです。「ピットインが払えないのなら、私が保証する」と言ってくれたようです。それはもうたいへん感激しました。それまでの私はジャズの世界で生きていくことに半信半疑でした。その時ですよ「よしやっていこう」と思ったのは。人生の転機だったと思います。それは店をオープンした時よりも、深い意味を持つターニングポイントでした。
エルヴィン・ジョーンズとの出会い − それは、あまりに運命的な出来事
ピットインが開店してちょうど1年が経過。このライブハウスの名前が日本中に轟く出来事があった。それは日本ジャズ史に刻まれた事件だった。
− 66年11月に、三大ドラマーのドラム合戦という演目でエルヴィン・ジョーンズ、トニー・ウィリアムス、アート・ブレイキーが揃って来日しました。その時、麻薬Gメンが動き出しまして、エルヴィンに容疑がかかったのです。しかし、やっていなかったので認めなかったところ、そんなはずはないと日本に勾留され、裁判になったわけです。
その裁判費用を捻出するために、ピットインでライブ出演したらどうかと話がありまして、12月から翌年1月まで日本の若手ミュージシャンとセッションを重ねることになりました。
すると「あのコルトレーンとやっていたエルヴィンだ」ということで日本中のジャズファンがやって来ました。口コミで広がったんですね。一晩の売り上げは確か10万円以上です。普段250円のところ1000円でやっていましたから、100人は来ていた勘定になります。20坪40席のスペースがもうギュウギュウですよ。ギャラは全部エルヴィンに渡しました。
そういえば渡辺文男さんがバスドラを両手で押さえていたのを憶えています。エルヴィンはまだ40歳。もの凄いパワーでね。どんどん前にせり出してきてしまうんです。曲はすべて有名なスタンダードでしたけど、それは完全にエルヴィンの世界でした。結局、1月に彼は証拠不十分でありながらも、強制送還になってしまいました。
エルヴィン・ジョーンズはそれから12年もの間、日本に入国することができなかった。再来日したのが1978年。ジャズに対する功績と薬物に対してクリーンであることがアメリカで認められ、やっと日本の審議官の許可が下りた。
− 再来日の時は、私が身元引受人になりました。入国管理局はチェックが厳しくて、すべてのスケジュールと居場所をはっきりさせ、ピットインの見取り図なども提出しました。しかし一度入国した前例が残れば、もうその必要がなくなりまして、以後、何度も日本公演を行いました。そのうちエルヴィンは、自分のバンドに日本人ミュージシャンを入れるようになりました。その実力を内外に知らせたいという思いがあったのだろうと思いますね。
やはり思い出に残る1枚といえばエルヴィンのライブアルバム
佐藤さんが最も思い出に残る1枚のアルバムとして取りだしたのが「エルヴィン・ジョーンズ・ジャズ・マシーン・ライヴ・アット・ピットイン」だ。レコーディングは85年8月1日。それはピットインが創業して20周年に当たっている。
− 現在「ライブ・アット・ピットイン」というタイトルがつくアルバムは何十枚もあるんですが、一番印象に残っています。制作者は私です。エルヴィンのアルバムを制作する長年の夢が、これでかないましてね。それまではレコードを作るとなると、機材が大規模でたいへんでしたが、この頃からそれほど難しいことではなくなったんですね。
バンドのピアニストは辛島文雄です。彼は九州から腕一本で単身上京して、ピットインに出演できるようになった人です。私が彼をエルヴィンに推薦してバンドに入れてもらいました。世界中をツアーして、アルバムはちょうど帰国した時の演奏になります。エルヴィン・バンドに入った、自分の推薦したミュージシャンのお披露目となるわけです。いろいろな意味で、このアルバムにはものすごく思い入れがあります。ですから、今回好きなレコードとしては、この一枚を選んで持ってきました。
(第2回につづく)
インタビュー・文 田中伊佐資
写真:田代法生