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公開日 2006/02/27 17:10
<TVF2006レポート>トークフォーラム詳報 審査委員が語る今年のビデオフェスティバル(後編)
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(7)被写体との関係から素晴らしい作品が生まれる。
(ここでハノイTVからTVFを取材しにきたファン・ヴェッ・フさんが登壇。フさんは過去にTVFに入賞している。)
フ:ベトナムではここ2,3年、TV関係者だけでなく一般市民にもこのフェスティバルの認知度が広がってきました。
大林:市民ビデオは作品が素晴らしいということだけでなく、作品を通じて社会を良くしていくということもある。
小林:今回のベトナムの入賞二作品は、いきなり撮影をしたわけでなくて前からつきあいがあってその親しい関係からキャメラが撮っていたわけですね。
大林: 被写体をキャメラが撮っているだけでなく、被写体とキャメラマンとの人間どうしの素晴らしいつながりがあってそれが作品になってきたところが素晴らしい。
(この作品は、ハンセン氏病者が暮らす施設の日常を、おだやかな明るい光の中で撮影した。)
(8)機材が市民の表現活動を後押し
北見:機材の進化によりプロのアマの差が技術的になくなってきている。今回、家族とか社会のルーツをたどっていくようなものも簡単に作れるようになってきたことを誇りに思っている。製作者の情熱に感謝している。
大林:28年の間にかつてのバブルのイベントとして始まったコンテストはみんななくなりましたが、TVFは継続していることで成果がでている。河辺川ダムについての作品がグランプリになったこともあった。あれは国を相手に係争中の事件で、その証拠として採用されるビデオだった。これがグランプリ。その時、ビクターがグランプリを与えるということは、その思想、メッセージも受け止めるということだから一企業が係争中の事件の住民側にたつということになりますがと聞きました。すると、そういう風に使われることも誇りだし、機材の生きている理由ですとおっしゃった。そういうことがここで素晴らしい成果を生んでいます。
それだけに、表現の自由というものが持っている重みを大切にして欲しいと思っています。
(2002年度第24回TVFのビデオ大賞受賞作品)
(9)日常を見つめる心が深くなってきた
羽仁: この5,6年、良い作品が増えた。自分を見つめることで、もっといろいろな世界が自分なりに見えてくる。先ほど5メートル以内は正確だけれど、そこから先には伝わらないといわれたけれど、5メートルの中で描いているものを本当に深く見つめれば、その中に本当に世界が現れてくるという作品が非常にでてきた。これはうれしい。
腕がよくなったというものではなくて、見つめる心が深くなったと思う。本当に自分が納得できるように見つめようと思うと、全然関係ない僕達まで感動させる。今の賞の上位にはそういう作品が増えてきた。
そこまでいくと、このフェスティバルが若い映像作家を育てるコンテストと思われる面もある。その面は素晴らしいのでひとつの山として残したい。
もうひとつの山として、ビデオを使うことで、私たちの生活がやっぱり変わる。今まで見えなかったものが見えてくる。自分の隣の人や家族をカメラで写そうと思えば、そこで新しい何かがでてくる。市民ビデオという言い方も変わるべきだと思うんですよ。自分は市民で、生活の中でやっているから市民ビデオというのはあまりに安易だと思う。
今年のミセスV6の方々の作品は始めは、何かを取材しようというところから始まってとても興味深い。自分の生活の中からではないとしても、そこから作品を始めているのはとても良いことだ。最後に残念だったのは、最後の劇がなんともいえないものになっている。この作品を方々の学校でも見せたというが、そういうことはもっと深めて欲しい。そういうタイプの作品もひとつの山とする。将来はこういう作品も作品性を帯びたら素晴らしい。
大林:賞のありかたも毎回議論されている。ビデオがどう市民生活を変えているかということで、賞という不自由なもののにとりあえず作品を載せるということをしている。
羽仁:多くの人が子どもの運動会でビデオカメラを持って学校に行って、自分の子どもだけしか撮らないのは病的だと思う。もっと他の撮るものがある。ある人は運動会の裏方を撮ろうということがあってもいいだろう。そういうものがお金を払っても見たい面白い作品になると思います。
(10)持続的に社会の中で循環する活動を
小林:賞をあげて社会に押し出してがんばってくださいと思っていても、グランプリをとった人がひき続き作品を出してくれないところがある。作品としてでなくても活動を続けて、その様子を報告して欲しい。一日だけの受賞で終わりではなくて、社会と循環していくやり方で賞が位置付けられていくことがいいという印象です。
北見:このフェスティバルで変わらないものは、何かのメッセージ性のあるものを大事にしたいと思ってきた。集まってくる作品のタイプはとても様々になっている。ドキュメンタリーやドラマなどいろいろ。
大林:今年のグランプリはジャンルもタイプもない。本当の意味でのオンリーワンで。写した私と写されたあなたの関係があるだけで。
(11)関係をどう作って映像化していくか。
佐藤:私が携わっている映像教育の場では芸術と技術の場面がある。今まではクオリティをあげていることが目的だったと思う。技術教育で一生懸命やってプロのカメラマンのようにになるとか。一方でアーティスティックな発想でちがう世界を作るというものがあった。
ところがここには、そういうものじゃないものがたくさん現れている。それは何だろうかと考えると、技術でも芸術でもなくて人と人との関係が作品になっている。これはじつは教えるわけにはいかなくて、僕らも踏み込めない、プロも踏み込めないし学校教育でも教えられない。関係をどう作って映像にしていくかということだったと思うんです。
そこが、映像教育ってこれからどうなっていくのだろうとそこにいながら途方にくれる部分があるし、多くを発見する部分もある。
このTVFが学生、若い人、お年を召した方などを越えて、ひとつの大きな大学のようなものにならないかと思います。
(この作品は、キムチ作りのために集まった家族や親戚の会話を通して、人と人との関係や家族のあり方の変化が見えてくることで、高い評価を得た。本年度日本ビクター大賞受賞。)
大林:ここはコンクールでもアマチュアのコンテストでもなく、一人が十分に一人であり、一人が十分にあなたを知るために、そしてお互いの関係を良くなるためにビデオをどのように活かして使っていこうかという場所だということが見えてきたんですね。
(12)映像の類型化・・・ホリエモン騒動に見る視点の固定やマスコミジャーナリズムの自縛コード
高畑:優秀30本以外で優秀作と同等の価値があるとしか思えないものが多くある。そういうことを考えると、30本にたまたま選ばれなかったものも優劣で下を意味しないことははっきりしている。100本全部そうではないかもしれないが。
大林:芸術が自然を模倣することで作品づくりをすすめるべき時代が今こそきています。
椎名:この選考会は面白く刺激を受けているんですが、毎年、毎年は面白いが、10年間の時系列でみると少し退屈してきている。何でだろうかと思うんだが、今、ものすごく映像氾濫時代で、作られている作品が類型化している。それから、TVとか既成の映画に影響されているんじゃないかと思います。それのミニチュアをたくさん見せられているような気がする。
例えばライブ・ドアの事件では全部のTVはホリエモンを中心とした被写体をずっと追っていますね。僕はある事件のときに現場にいたことがあるが、記者会見の時に被写体の向かい側にいるマスコミジャーナリズムのすさまじさに驚いたことがある。阿鼻叫喚の状態で異常な世界なんですよ。全てのTV局は被写体だけ、つまりホリエモンだけを撮っていますけれども、僕はホリエモン側からのほうから狂ったような騒々しいマスコミを写す側は一局ぐらいないもんだろうかと思うんですが、そんなものはただの一局もなかったですね。
あの事件の異常さというのは、マスコミを含めた全体をとらえることが一番わかりやすいと思ったんですよ。
こういうフェスティバルというのは、いわゆる縛りがないですから何をとってもいいわけです。先ほどゲストで登場されたチェルノブイリやベトナムのハンセン氏病の作品などが刺激的なのは、放送コードみたいなものをある程度無視して撮ることができますね。
ところが日本のマスコミには自縛コードがあって、出してもいいと思うんだけれど問題をおこさないところにいて、そういうところにいるから皆似たような映像になってしまうんですね。
こういうフェスティバルこそ、角度を変え発想を変え見方を変えたものがどんどん出てきても良いのではないかと思うんです。それが許されている世界ではないかと思いますので、そういうところにこれから期待したいなあと思っています。
(13)パターン化を突き破る創造の力を
大林:熱い思いでTVF審査に参加されてきた椎名さんを飽きさせているものは何だろうかというのが問題ですね。
キャメラというのはフレームで自然界と社会を切り取るものですが、切り取るのは構図のためでもなく自分の意志ですよね。自分のメッセージが何を切り取るのか。
そこで表現の自由といいながら、私たちはどこかで大変な不自由に毒されていてどこかで生き方がパターン化してくる。当然、作品もパターン化してきます。しかし、それをつきやぶっていくのが創造という力だと思います。
最後に「我々を飽きさせるな」という言葉を、私たちも含め自戒の言葉としてフォーラムをこの辺でお開きにしたいと思います。
※ 以上の審査員発言は部分的に割愛編集してあります。
( 取材/文責:山之内優子 )
(7)被写体との関係から素晴らしい作品が生まれる。
(ここでハノイTVからTVFを取材しにきたファン・ヴェッ・フさんが登壇。フさんは過去にTVFに入賞している。)
フ:ベトナムではここ2,3年、TV関係者だけでなく一般市民にもこのフェスティバルの認知度が広がってきました。
大林:市民ビデオは作品が素晴らしいということだけでなく、作品を通じて社会を良くしていくということもある。
小林:今回のベトナムの入賞二作品は、いきなり撮影をしたわけでなくて前からつきあいがあってその親しい関係からキャメラが撮っていたわけですね。
大林: 被写体をキャメラが撮っているだけでなく、被写体とキャメラマンとの人間どうしの素晴らしいつながりがあってそれが作品になってきたところが素晴らしい。
(この作品は、ハンセン氏病者が暮らす施設の日常を、おだやかな明るい光の中で撮影した。)
(8)機材が市民の表現活動を後押し
北見:機材の進化によりプロのアマの差が技術的になくなってきている。今回、家族とか社会のルーツをたどっていくようなものも簡単に作れるようになってきたことを誇りに思っている。製作者の情熱に感謝している。
大林:28年の間にかつてのバブルのイベントとして始まったコンテストはみんななくなりましたが、TVFは継続していることで成果がでている。河辺川ダムについての作品がグランプリになったこともあった。あれは国を相手に係争中の事件で、その証拠として採用されるビデオだった。これがグランプリ。その時、ビクターがグランプリを与えるということは、その思想、メッセージも受け止めるということだから一企業が係争中の事件の住民側にたつということになりますがと聞きました。すると、そういう風に使われることも誇りだし、機材の生きている理由ですとおっしゃった。そういうことがここで素晴らしい成果を生んでいます。
それだけに、表現の自由というものが持っている重みを大切にして欲しいと思っています。
(2002年度第24回TVFのビデオ大賞受賞作品)
(9)日常を見つめる心が深くなってきた
羽仁: この5,6年、良い作品が増えた。自分を見つめることで、もっといろいろな世界が自分なりに見えてくる。先ほど5メートル以内は正確だけれど、そこから先には伝わらないといわれたけれど、5メートルの中で描いているものを本当に深く見つめれば、その中に本当に世界が現れてくるという作品が非常にでてきた。これはうれしい。
腕がよくなったというものではなくて、見つめる心が深くなったと思う。本当に自分が納得できるように見つめようと思うと、全然関係ない僕達まで感動させる。今の賞の上位にはそういう作品が増えてきた。
そこまでいくと、このフェスティバルが若い映像作家を育てるコンテストと思われる面もある。その面は素晴らしいのでひとつの山として残したい。
もうひとつの山として、ビデオを使うことで、私たちの生活がやっぱり変わる。今まで見えなかったものが見えてくる。自分の隣の人や家族をカメラで写そうと思えば、そこで新しい何かがでてくる。市民ビデオという言い方も変わるべきだと思うんですよ。自分は市民で、生活の中でやっているから市民ビデオというのはあまりに安易だと思う。
今年のミセスV6の方々の作品は始めは、何かを取材しようというところから始まってとても興味深い。自分の生活の中からではないとしても、そこから作品を始めているのはとても良いことだ。最後に残念だったのは、最後の劇がなんともいえないものになっている。この作品を方々の学校でも見せたというが、そういうことはもっと深めて欲しい。そういうタイプの作品もひとつの山とする。将来はこういう作品も作品性を帯びたら素晴らしい。
大林:賞のありかたも毎回議論されている。ビデオがどう市民生活を変えているかということで、賞という不自由なもののにとりあえず作品を載せるということをしている。
羽仁:多くの人が子どもの運動会でビデオカメラを持って学校に行って、自分の子どもだけしか撮らないのは病的だと思う。もっと他の撮るものがある。ある人は運動会の裏方を撮ろうということがあってもいいだろう。そういうものがお金を払っても見たい面白い作品になると思います。
(10)持続的に社会の中で循環する活動を
小林:賞をあげて社会に押し出してがんばってくださいと思っていても、グランプリをとった人がひき続き作品を出してくれないところがある。作品としてでなくても活動を続けて、その様子を報告して欲しい。一日だけの受賞で終わりではなくて、社会と循環していくやり方で賞が位置付けられていくことがいいという印象です。
北見:このフェスティバルで変わらないものは、何かのメッセージ性のあるものを大事にしたいと思ってきた。集まってくる作品のタイプはとても様々になっている。ドキュメンタリーやドラマなどいろいろ。
大林:今年のグランプリはジャンルもタイプもない。本当の意味でのオンリーワンで。写した私と写されたあなたの関係があるだけで。
(11)関係をどう作って映像化していくか。
佐藤:私が携わっている映像教育の場では芸術と技術の場面がある。今まではクオリティをあげていることが目的だったと思う。技術教育で一生懸命やってプロのカメラマンのようにになるとか。一方でアーティスティックな発想でちがう世界を作るというものがあった。
ところがここには、そういうものじゃないものがたくさん現れている。それは何だろうかと考えると、技術でも芸術でもなくて人と人との関係が作品になっている。これはじつは教えるわけにはいかなくて、僕らも踏み込めない、プロも踏み込めないし学校教育でも教えられない。関係をどう作って映像にしていくかということだったと思うんです。
そこが、映像教育ってこれからどうなっていくのだろうとそこにいながら途方にくれる部分があるし、多くを発見する部分もある。
このTVFが学生、若い人、お年を召した方などを越えて、ひとつの大きな大学のようなものにならないかと思います。
(この作品は、キムチ作りのために集まった家族や親戚の会話を通して、人と人との関係や家族のあり方の変化が見えてくることで、高い評価を得た。本年度日本ビクター大賞受賞。)
大林:ここはコンクールでもアマチュアのコンテストでもなく、一人が十分に一人であり、一人が十分にあなたを知るために、そしてお互いの関係を良くなるためにビデオをどのように活かして使っていこうかという場所だということが見えてきたんですね。
(12)映像の類型化・・・ホリエモン騒動に見る視点の固定やマスコミジャーナリズムの自縛コード
高畑:優秀30本以外で優秀作と同等の価値があるとしか思えないものが多くある。そういうことを考えると、30本にたまたま選ばれなかったものも優劣で下を意味しないことははっきりしている。100本全部そうではないかもしれないが。
大林:芸術が自然を模倣することで作品づくりをすすめるべき時代が今こそきています。
椎名:この選考会は面白く刺激を受けているんですが、毎年、毎年は面白いが、10年間の時系列でみると少し退屈してきている。何でだろうかと思うんだが、今、ものすごく映像氾濫時代で、作られている作品が類型化している。それから、TVとか既成の映画に影響されているんじゃないかと思います。それのミニチュアをたくさん見せられているような気がする。
例えばライブ・ドアの事件では全部のTVはホリエモンを中心とした被写体をずっと追っていますね。僕はある事件のときに現場にいたことがあるが、記者会見の時に被写体の向かい側にいるマスコミジャーナリズムのすさまじさに驚いたことがある。阿鼻叫喚の状態で異常な世界なんですよ。全てのTV局は被写体だけ、つまりホリエモンだけを撮っていますけれども、僕はホリエモン側からのほうから狂ったような騒々しいマスコミを写す側は一局ぐらいないもんだろうかと思うんですが、そんなものはただの一局もなかったですね。
あの事件の異常さというのは、マスコミを含めた全体をとらえることが一番わかりやすいと思ったんですよ。
こういうフェスティバルというのは、いわゆる縛りがないですから何をとってもいいわけです。先ほどゲストで登場されたチェルノブイリやベトナムのハンセン氏病の作品などが刺激的なのは、放送コードみたいなものをある程度無視して撮ることができますね。
ところが日本のマスコミには自縛コードがあって、出してもいいと思うんだけれど問題をおこさないところにいて、そういうところにいるから皆似たような映像になってしまうんですね。
こういうフェスティバルこそ、角度を変え発想を変え見方を変えたものがどんどん出てきても良いのではないかと思うんです。それが許されている世界ではないかと思いますので、そういうところにこれから期待したいなあと思っています。
(13)パターン化を突き破る創造の力を
大林:熱い思いでTVF審査に参加されてきた椎名さんを飽きさせているものは何だろうかというのが問題ですね。
キャメラというのはフレームで自然界と社会を切り取るものですが、切り取るのは構図のためでもなく自分の意志ですよね。自分のメッセージが何を切り取るのか。
そこで表現の自由といいながら、私たちはどこかで大変な不自由に毒されていてどこかで生き方がパターン化してくる。当然、作品もパターン化してきます。しかし、それをつきやぶっていくのが創造という力だと思います。
最後に「我々を飽きさせるな」という言葉を、私たちも含め自戒の言葉としてフォーラムをこの辺でお開きにしたいと思います。
※ 以上の審査員発言は部分的に割愛編集してあります。
( 取材/文責:山之内優子 )