公開日 2018/10/10 06:00
黒崎政男×島田裕巳のオーディオ哲学宗教談義 Season 2「存在とはメンテナンスである」<第1回>
哲学者と宗教学者がオーディオを語り尽くす
銀座サウンドクリエイトの恒例イベントとなった「オーディオ哲学宗教談義」。哲学者・黒崎政男氏と宗教学者・島田裕巳氏が、それぞれの分野からテーマに基づき、音楽、オーディオについて対談するという催しは、同店でも大変盛況で、2018年春、第2シーズン(Season2)が開催された。Season1のテーマは「オーディオは本当に進歩したのか」であった。続いてSeason2では、「存在とはメンテナンスである」という現代社会にも通じるテーマをオーディオに焦点を当てて展開したのだった。その様子をご紹介する。
「存在は不変不滅」と「存在はメンテナンス」
黒崎 「存在とは何か」。哲学は、こんなことをずっと考えているわけですが、古代ギリシャの時代から、2つの相反する考えがあります。ひとつはヘラクレイトス的。「万物は流転する」。すべては生成・消滅し、永遠不滅なものなどない。「成る」の思想ですね。
もうひとつはパルメニデス的。「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」。つまり「在る」の思想です。私たちが日常経験する「生成」や「変化」は、感覚の迷いにすぎず、在るものは永遠不滅に存在している。
この両者は、存在について「生成・変化」(ダイナミック)なのか、「不変不滅」(スタティック)なのか、対をなしているわけですね。例えば、「自然」は太古の昔から不変不滅、万古不易と考えるか、あるいは、「自然」といえども、それは生成・変化の相にあるのだ、と考えるか。
……あ、いい?
島田 ん?
黒崎 対談なのに、ひとりで話しちゃって……。
一同 (笑)
島田 どうぞ、哲学者黒崎の講義を(笑)。
黒崎 どうも。えっと、このSeason2の大テーマである「存在とはメンテナンスである」というのを説明しようとして、いま始めちゃったわけですけど。そして、オーディオの本質はメンテナンスorアップグレードだ、って話にまで持っていきたいのですが。とにかく、続けますね。さて、存在・自然についてですが、かつて伝統的思想では、自然は永遠に変わることなく、ただ人間の存在や営みが、歴史的・生成・消滅の相にある、と考えていました。
今日、一番はじめにおかけしようと思っているレコードは、マーラーの交響曲「大地の歌」ですが、その歌詞に「自然は永遠だが、人間ははかない」というのがあります。ここには伝統的思想の発想があります。この曲に、従来の世界観、特に東洋的世界観、自然は永久に続いていく、春が来て夏が来て、秋が来て冬が来る。我々だけが消えていくんだよね、という世界観が描かれています。
島田 それ、間違っているよね。万物は不変じゃないよ。
黒崎 私もそう思うけれども、昔はね。この時代は、自然はずーっと不変、不滅でその中にはかないものが存在していた。そういう思想だった。えっと(笑)、ここでトラブるとですね、先に進みませんので、このまま行かせていただきますが。
島田 はい。
一同 (笑)
黒崎 それで、自然は不変不滅である、という伝統的発想に対して、次第に、自然も生成・消滅の相にあるのではないか、という考えが出てくる。例えば、進化論。花や鳥や自然の生命も進化・変化して今のようになっているのだし、ビッグバン理論によって、自然・宇宙そのものが根本的に歴史的に生成・変化するものだ。大陸移動説によって、地球も太古からこのままだったのではなく常に変化しているのだ。こうやって、実は、自然は「歴史」であり、自然のどこにも「永遠なるもの」は存在しない、と考えるようになってきたわけです。
つまり、<ヘラクレイトス的>な「存在とは生成・消滅の相にある」ということですね。えっと、これでやっと、「存在とはメンテナンスである」まであと一歩まで来ました。
さて、一気に飛びます。現代では、コンピューターなんて3年も放っておくと使いものにならなくなったりしますよね。バージョンアップをしてやっと普通に機能する。そんなことを考えているうちに、もしかして「存在する」というのは、常にメンテナンスをしてこそ、「今」を保つことができるのではないかと思うようになりました。
米国雑誌『WIRED』の編集長だったケヴィン・ケリー氏の著作で『<インターネット>の次にくるもの』という本があります。原題は『The Inevitable』……つまり不可避なもの。この冒頭でケヴィンは「最近、啓示を受けたように思ったことは、“存在とはメンテナンスである”ということ」と言っている。コンピューターの存在、デジタル機器の普及を通じて、世界観というものがこの何年かで変化してきているのではないかと思うんです。それをケビンが「存在とはメンテナンスである」という言葉で始めている。これは深いと思った。それで、大学で島田さんに「授業の時、こんなのやっているんだよ」ってその部分コピーを渡したら……。
島田 2週にわたって渡されたよ(笑)。私も読みました。『<インターネット>の次にくるもの』。
黒崎 ここ10年くらいの間で、デジタル・コンピューター・AI関係について、もっとも突出した時代を見据えた書物だと思いました。そしたら、島田さんが、この「存在はメンテナンス」は、オーディオのメンテナンスやバージョンアップの問題とも絡むんじゃない? これでまたオーディオ対談やろうよ、ってことになった。
島田 人間でも年をとってくると、「存在はメンテナンス」ということばが身に染みるようになるけれど、オーディオはめまぐるしく変化していきますからね。その一方で、古典的な名曲というか、名演奏は不変不滅であると。
黒崎 うーん。そうですね……。では、ともかく1曲目をLPレコードでかけましょう。マーラーの「大地の歌」の第1楽章は、李白の詩を使っています。といっても、李白そのものではなくて、李白などの唐詩を自由にドイツ語に翻訳編集した「中国の笛」という詩集から、マーラーが適宜改編して使っています。この「大地の歌」の第一楽章の内容は「天空は永遠にいつも青くて、大地はずっと揺るぎない。いつも花は春になると咲く。だけど人間よ、君はどれだけ生き延びるのか。100年ももたないのではないか。100年はもたないお前が描く夢を鳴らした。この大地の中で」。こういう世界観です。
島田 すごいね。李白が西洋に渡るとこういう風になるのか。
黒崎 「大地の歌」。私は40年前はB.ワルターやL.バーンスタインが振ったのを聴いていましたが、今回、O.クレンペラー指揮の「大地の歌」を聴いたら、とても圧倒されまして……。加えて、この度“初期盤”というものに目覚めてしまったのです。まずは聴いてください。1967年の録音です。
〜O.クレンペラー(指揮):マーラー「大地の歌」を聴く〜
黒崎 「生は暗く、死もまた暗い Dunkel ist das Leben, ist der Tod!」というのがこの楽章の一番テーマになっています。20代の時に聴いていまして、40年ぶりに聴き直したのです。今聴くと趣が違ってまた非常に沁みるんですよね。それにクレンペラーのこのLPレコード。オリジナル盤というか初期盤というか、1960年代に発売された当時のレコードなんです。
島田 なるほどね。それはいいとして、これは「存在はメンテナンス」の話とどう繋がるの?
「存在は不変不滅」と「存在はメンテナンス」
黒崎 「存在とは何か」。哲学は、こんなことをずっと考えているわけですが、古代ギリシャの時代から、2つの相反する考えがあります。ひとつはヘラクレイトス的。「万物は流転する」。すべては生成・消滅し、永遠不滅なものなどない。「成る」の思想ですね。
もうひとつはパルメニデス的。「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」。つまり「在る」の思想です。私たちが日常経験する「生成」や「変化」は、感覚の迷いにすぎず、在るものは永遠不滅に存在している。
この両者は、存在について「生成・変化」(ダイナミック)なのか、「不変不滅」(スタティック)なのか、対をなしているわけですね。例えば、「自然」は太古の昔から不変不滅、万古不易と考えるか、あるいは、「自然」といえども、それは生成・変化の相にあるのだ、と考えるか。
……あ、いい?
島田 ん?
黒崎 対談なのに、ひとりで話しちゃって……。
一同 (笑)
島田 どうぞ、哲学者黒崎の講義を(笑)。
黒崎 どうも。えっと、このSeason2の大テーマである「存在とはメンテナンスである」というのを説明しようとして、いま始めちゃったわけですけど。そして、オーディオの本質はメンテナンスorアップグレードだ、って話にまで持っていきたいのですが。とにかく、続けますね。さて、存在・自然についてですが、かつて伝統的思想では、自然は永遠に変わることなく、ただ人間の存在や営みが、歴史的・生成・消滅の相にある、と考えていました。
今日、一番はじめにおかけしようと思っているレコードは、マーラーの交響曲「大地の歌」ですが、その歌詞に「自然は永遠だが、人間ははかない」というのがあります。ここには伝統的思想の発想があります。この曲に、従来の世界観、特に東洋的世界観、自然は永久に続いていく、春が来て夏が来て、秋が来て冬が来る。我々だけが消えていくんだよね、という世界観が描かれています。
島田 それ、間違っているよね。万物は不変じゃないよ。
黒崎 私もそう思うけれども、昔はね。この時代は、自然はずーっと不変、不滅でその中にはかないものが存在していた。そういう思想だった。えっと(笑)、ここでトラブるとですね、先に進みませんので、このまま行かせていただきますが。
島田 はい。
一同 (笑)
黒崎 それで、自然は不変不滅である、という伝統的発想に対して、次第に、自然も生成・消滅の相にあるのではないか、という考えが出てくる。例えば、進化論。花や鳥や自然の生命も進化・変化して今のようになっているのだし、ビッグバン理論によって、自然・宇宙そのものが根本的に歴史的に生成・変化するものだ。大陸移動説によって、地球も太古からこのままだったのではなく常に変化しているのだ。こうやって、実は、自然は「歴史」であり、自然のどこにも「永遠なるもの」は存在しない、と考えるようになってきたわけです。
つまり、<ヘラクレイトス的>な「存在とは生成・消滅の相にある」ということですね。えっと、これでやっと、「存在とはメンテナンスである」まであと一歩まで来ました。
さて、一気に飛びます。現代では、コンピューターなんて3年も放っておくと使いものにならなくなったりしますよね。バージョンアップをしてやっと普通に機能する。そんなことを考えているうちに、もしかして「存在する」というのは、常にメンテナンスをしてこそ、「今」を保つことができるのではないかと思うようになりました。
米国雑誌『WIRED』の編集長だったケヴィン・ケリー氏の著作で『<インターネット>の次にくるもの』という本があります。原題は『The Inevitable』……つまり不可避なもの。この冒頭でケヴィンは「最近、啓示を受けたように思ったことは、“存在とはメンテナンスである”ということ」と言っている。コンピューターの存在、デジタル機器の普及を通じて、世界観というものがこの何年かで変化してきているのではないかと思うんです。それをケビンが「存在とはメンテナンスである」という言葉で始めている。これは深いと思った。それで、大学で島田さんに「授業の時、こんなのやっているんだよ」ってその部分コピーを渡したら……。
島田 2週にわたって渡されたよ(笑)。私も読みました。『<インターネット>の次にくるもの』。
黒崎 ここ10年くらいの間で、デジタル・コンピューター・AI関係について、もっとも突出した時代を見据えた書物だと思いました。そしたら、島田さんが、この「存在はメンテナンス」は、オーディオのメンテナンスやバージョンアップの問題とも絡むんじゃない? これでまたオーディオ対談やろうよ、ってことになった。
島田 人間でも年をとってくると、「存在はメンテナンス」ということばが身に染みるようになるけれど、オーディオはめまぐるしく変化していきますからね。その一方で、古典的な名曲というか、名演奏は不変不滅であると。
黒崎 うーん。そうですね……。では、ともかく1曲目をLPレコードでかけましょう。マーラーの「大地の歌」の第1楽章は、李白の詩を使っています。といっても、李白そのものではなくて、李白などの唐詩を自由にドイツ語に翻訳編集した「中国の笛」という詩集から、マーラーが適宜改編して使っています。この「大地の歌」の第一楽章の内容は「天空は永遠にいつも青くて、大地はずっと揺るぎない。いつも花は春になると咲く。だけど人間よ、君はどれだけ生き延びるのか。100年ももたないのではないか。100年はもたないお前が描く夢を鳴らした。この大地の中で」。こういう世界観です。
島田 すごいね。李白が西洋に渡るとこういう風になるのか。
黒崎 「大地の歌」。私は40年前はB.ワルターやL.バーンスタインが振ったのを聴いていましたが、今回、O.クレンペラー指揮の「大地の歌」を聴いたら、とても圧倒されまして……。加えて、この度“初期盤”というものに目覚めてしまったのです。まずは聴いてください。1967年の録音です。
〜O.クレンペラー(指揮):マーラー「大地の歌」を聴く〜
黒崎 「生は暗く、死もまた暗い Dunkel ist das Leben, ist der Tod!」というのがこの楽章の一番テーマになっています。20代の時に聴いていまして、40年ぶりに聴き直したのです。今聴くと趣が違ってまた非常に沁みるんですよね。それにクレンペラーのこのLPレコード。オリジナル盤というか初期盤というか、1960年代に発売された当時のレコードなんです。
島田 なるほどね。それはいいとして、これは「存在はメンテナンス」の話とどう繋がるの?
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