HOME > ニュース > AV&ホームシアターニュース
公開日 2012/08/08 14:30
元ソニー副社長/アイワ会長/日本オーディオ協会会長の鹿井信雄氏が死去
元ソニー(株)代表取締役副社長、元アイワ(株)代表取締役会長の鹿井信雄(かのいのぶお)氏が、8月3日に死去した。享年81歳。死因は多臓器不全。
鹿井氏は東北大学工学部を卒業後、1955年に東京通信工業株式会社(現ソニー)に入社。日本初のトランジスタラジオ「TR-55」の設計に中心メンバーとして携わり、以降ラジオ、テープレコーダー、テレビなどの設計・製造を担当した。
1970年にアイワ株式会社に転籍。73年取締役、77年常務取締役に就任。この間、設計部長、生産本部長、ビデオ事業部長を歴任した。
1983年にソニーに戻り、84年取締役、86年常務、87年専務、90年代表取締役副社長に就任。オーディオ事業本部長、技術研究所長、ビデオ事業本部長、商品推進本部長、テレビ事業本部長、ビデオディスク事業本部長、カスタマーサービス本部長など、ソニーの基幹事業を幅広く担当した。特にCD、8ミリビデオなど数多くの主力ビジネスを育て上げた。その後1994年、アイワの代表取締役会長に就任した。
また2002年から2008年まで日本オーディオ協会の会長を務めるなど、会社の枠を越えて、オーディオ業界の発展にも大きく寄与した。
8月22日、(社)日本オーディオ協会 会長の校條亮治氏から、追悼の言葉が寄せられた。
鹿井信雄さんを偲んで
(社)日本オーディオ協会 会長 校條亮治氏
懐の深い、卓越した先見性で業界をけん引
日本オーディオ協会の前会長(現顧問)の鹿井信雄さんが、2012年8月3日午前11時43分に逝去されました。一昨年不幸にも病に倒れられ、その後順調に回復されているとの報でしたので、ただ驚き残念でなりません。
鹿井さんとのお付き合いは私にとって僅か5年程度ですが、私のような学識もない門外漢に後事を託し、ご当人も気が気ではなかったかと思います。私も業界の一員として、お名前は存じ上げておりましたが、兎にも角にも雲の上の方でした。縁あって5年前に協会に携わることになり、お付き合いを頂くことになりました。
僭越ながら申し上げれば、鹿井さんは誠に懐が深く、また幅の広い方であったと思います。所属されたソニー(株)では代表取締役副社長を、アイワ(株)では代表取締役会長を歴任されたことは当然であったといえます。その輝かしい経歴が物語っているように「日本初のトランジスタラジオの開発」に携わり、一方でCDや8ミリビデオなどを主力ビジネスに育て上げられた手腕は、優秀な技術者という枠にとどまらず、企業人として、また経営者として卓越した方であったといえます。開発からサービス事業まで誠に幅広く担当され、それらのトップを担うなど八面六臂の活躍であったと聞いております。
一方、日本オーディオ協会では、02年から08年まで6年間にわたり会長職を務められました。この時期の国内オーディ業界は極めて難しい時代であり、デジタル化、小型化の急速な進展により、生活スタイルと価値観が一変した時代です。そんな中で現在を予見するが如く、第三世代オーディオを強く認識されていました。しかし、その先見性は、国内企業の商品では具現化されず、忸怩たる思いであったと思います。
常に先を見るという点では、技術者にめずらしく「日本ランチェスター協会」という戦略・マーケティングの本山の役員を務められたことでも明らかです。もう少し早くお付き合いを頂いていたならば、ご一緒に改革のお手伝いができたと思うところです。思いは尽きません。
鹿井さん、天国でゆっくりと好きな音楽を楽しんでください。安らかなご冥福をお祈り致します。
2012年8月22日
一般社団法人 日本オーディオ協会
会長 校條 亮治
鹿井氏は東北大学工学部を卒業後、1955年に東京通信工業株式会社(現ソニー)に入社。日本初のトランジスタラジオ「TR-55」の設計に中心メンバーとして携わり、以降ラジオ、テープレコーダー、テレビなどの設計・製造を担当した。
1970年にアイワ株式会社に転籍。73年取締役、77年常務取締役に就任。この間、設計部長、生産本部長、ビデオ事業部長を歴任した。
1983年にソニーに戻り、84年取締役、86年常務、87年専務、90年代表取締役副社長に就任。オーディオ事業本部長、技術研究所長、ビデオ事業本部長、商品推進本部長、テレビ事業本部長、ビデオディスク事業本部長、カスタマーサービス本部長など、ソニーの基幹事業を幅広く担当した。特にCD、8ミリビデオなど数多くの主力ビジネスを育て上げた。その後1994年、アイワの代表取締役会長に就任した。
また2002年から2008年まで日本オーディオ協会の会長を務めるなど、会社の枠を越えて、オーディオ業界の発展にも大きく寄与した。
8月22日、(社)日本オーディオ協会 会長の校條亮治氏から、追悼の言葉が寄せられた。
鹿井信雄さんを偲んで
(社)日本オーディオ協会 会長 校條亮治氏
懐の深い、卓越した先見性で業界をけん引
日本オーディオ協会の前会長(現顧問)の鹿井信雄さんが、2012年8月3日午前11時43分に逝去されました。一昨年不幸にも病に倒れられ、その後順調に回復されているとの報でしたので、ただ驚き残念でなりません。
鹿井さんとのお付き合いは私にとって僅か5年程度ですが、私のような学識もない門外漢に後事を託し、ご当人も気が気ではなかったかと思います。私も業界の一員として、お名前は存じ上げておりましたが、兎にも角にも雲の上の方でした。縁あって5年前に協会に携わることになり、お付き合いを頂くことになりました。
僭越ながら申し上げれば、鹿井さんは誠に懐が深く、また幅の広い方であったと思います。所属されたソニー(株)では代表取締役副社長を、アイワ(株)では代表取締役会長を歴任されたことは当然であったといえます。その輝かしい経歴が物語っているように「日本初のトランジスタラジオの開発」に携わり、一方でCDや8ミリビデオなどを主力ビジネスに育て上げられた手腕は、優秀な技術者という枠にとどまらず、企業人として、また経営者として卓越した方であったといえます。開発からサービス事業まで誠に幅広く担当され、それらのトップを担うなど八面六臂の活躍であったと聞いております。
一方、日本オーディオ協会では、02年から08年まで6年間にわたり会長職を務められました。この時期の国内オーディ業界は極めて難しい時代であり、デジタル化、小型化の急速な進展により、生活スタイルと価値観が一変した時代です。そんな中で現在を予見するが如く、第三世代オーディオを強く認識されていました。しかし、その先見性は、国内企業の商品では具現化されず、忸怩たる思いであったと思います。
常に先を見るという点では、技術者にめずらしく「日本ランチェスター協会」という戦略・マーケティングの本山の役員を務められたことでも明らかです。もう少し早くお付き合いを頂いていたならば、ご一緒に改革のお手伝いができたと思うところです。思いは尽きません。
鹿井さん、天国でゆっくりと好きな音楽を楽しんでください。安らかなご冥福をお祈り致します。
2012年8月22日
一般社団法人 日本オーディオ協会
会長 校條 亮治