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ハイレゾ化キーマンにインタビュー

「小泉今日子」像はいかに確立されたのか? ハイレゾ化されたアルバム制作の舞台裏から探る

公開日 2016/07/06 11:15 インタビュー・試聴:炭山アキラ/構成:編集部
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小泉今日子という人は極めて独自性が強いアイドルだ、と個人的には感じている。全盛期の17thシングル「なんてったってアイドル」に明示的だが、自ら“アイドルであること”を公言し、アイドルを演じている自分を一歩外から眺める“メタ・アイドル”的な存在感を示したこともそうだし、アルバム1枚ごとに全く違う色合いと曲調を提示し続けたこともそうだ。

特に、アイドルのアルバムに「トータル・コンセプト」的なものを取り入れ、さらにそれをどんどんチェンジしていくという方法論は、極めて稀有なことであったろう。そのあたり、当時のスタッフの皆さんがどうやってかっちりと“小泉今日子像”を作り上げていたのか、水を向けた。



―― あるインタビューで「なんてったってアイドル」なんて歌いたくなかった、と小泉さんが話していらっしゃったのを読みました。なので割とがっちりスタッフの皆さんが方向性を決めていたのかと思っていたのですが、意外とご本人の意向を聞かれていたんですね。

田村 シングルは、タイアップなんかがあると皆さんが納得できるものを作るのがこちらの仕事なので、本人が好きだの嫌いだのいってられないじゃないですか。ただ、実際はあまり現場で好き嫌いをいわれたことはないですけどね。

アルバムに関しては、最初の頃はとにかく忙しくて、本人と打ち合わせする時間なんてありませんでした。だって、シングルが出たら歌番組だけで1カ月に30本くらいある時代でしたからね。その合間を縫ってレコーディングするしかないわけで、本人は歌った後プレイバックを聴きながら眠っている、というような状況でした。そんな中で徐々に時間ができてきて『次、どうしようか』という話し合いができるようになったのは、数年たってからでしたね。

田村充義氏

―― アルバムでいうと、どのあたりからそういう風にできるようになってきたんですか?

田村 最初は僕もよく分からなかったものですから、できるだけ多くの方、作詞・作曲家にしてもいろんな方とやってみようという風に決めました。相性がいい方、世界観が合う方、また小泉さんが好きな方とか、まぁいろんなチョイスがあるわけなんですが、アルバムというのはそういうトライアルができる場所なんで、例えば新人の作詞家が出てきたら『ちょっと書いてみてよ』なんてやりつつ、進んできました。

最初の頃は、シングルは筒美京平先生が曲を書いて下さっていて、5枚目の『Betty』(1984年7月)は京平先生の作品でまとめたアルバムです。それ以外にもさまざまな方と色々なことをやっていって、徐々に徐々に世代を若返らせていったんですね。

Betty(1984年7月)

アイドルと呼ばれる人がたくさんいる中で、大人の男性が書く“男目線の歌詞”よりは、女性目線で書く歌詞の方がリアリティがあるということもあって、あの時代は大勢の女性作詞家が生まれたんですよ。今残っているのは岩里祐穂(「ユメ科ウツツ科」)とか川村真澄(「Smile Again」)とか麻生圭子(「100%男女交際」)とかでしょうか。あと、作曲の井上ヨシマサ(「Someday」ほか)ですね。ほとんど小泉さんと同世代だったんで。そういう人を入れたり野村義男(「キスを止めないで」ほか)が入ってきたり。

そういう意味でいうと、意見が出しやすい現場、一緒に作っていける雰囲気というのが出始めたのは、7枚目の『Flapper』(1985年7月)あたりだったでしょうか。本人がライブをやるようになったら、バンドのメンバーが参加してくれたり、ということもありました。そうすると、楽しくできるようになったというか。

Flapper(1985年7月)

もちろん、アルバムばっかりじゃなくてシングルはシングルできっちりとやらなきゃいけなくて、別の狙いがあったりもしたんですけどね。アルバム作りに関していえば、「近いメンバー全部でやろうか!」みたいな乗りの作品を作ったり、あるいは1枚のアルバムのために特別に来てもらった人と一緒にやったり、そんなことも混ぜながら、だんだん中身を作っていった、という感じですかね。

―― 中身を作っていった、とは?

田村 僕たちが小泉と接するのは、全体の時間の1〜2割あるかないかですよね。で、他の仕事もいろいろこなしている中、歌のパートとしての彼女のキャラクターをどういう風に作っていこうか、というのを、やっぱり最初の数枚で作っていかなきゃいけない。まぁ逆にいえば、たくさん作っていけばそれで個性ができたりしてくるので、歌としての個性はどうとか、本人のキャラクターとしての個性はどうとか、考え方としての個性はどうとか、またこんなことをやったら面白そうだとか、そういうことをやっていって、一般の方が思い浮かぶ「小泉今日子像」というものができてきたんだと思います。

音楽の方ではそんな感じですが、またお芝居の方は、映画は、また雑誌は、ということをいろんな方がいろんな目線でやっていただいて、それが総合して「小泉今日子」という存在ができていったんだと思います。音楽は目立つから、メインのようにいわれがちですけど、そんなことはないんですよ。こっちでも制作時に困ったな、となったら「映画でこの役をやるから、そのキャラに沿って作ってみようか」ということももちろんありましたし。あと、CMでやっていることが面白いからこの人と一緒にやってみようかなんてこともあり。多分“お互い様”だったんだろうと思うんですよ。


小泉今日子はとかく強いセルフイメージを確立しているものだから、自分であのキャラクターを創り上げているように思わず感じてしまいがちだが、その偶像(=アイドル)は、かくも多くの人たちによって、時に異業種との化学反応も加えながら、じっくりと時間をかけて編み出されていったものといってよいだろう。

ところで、小泉今日子は自分でも作詞を手がけている。もちろんそれも含めての“小泉今日子像”なのだが、彼女自身が“曲作り”にまで進出するきっかけは、どういうことだったのだろうか。


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