ハイレゾ化キーマンにインタビュー
「小泉今日子」像はいかに確立されたのか? ハイレゾ化されたアルバム制作の舞台裏から探る
―― 2015年の3月から小泉さんのシングル全42曲がハイレゾ配信されていますが、今回改めてアルバムもハイレゾ配信をしようというきっかけというのは、何だったんでしょうか。
田村 小泉さんの「50歳の誕生日にしましょう」と言っていたんです(笑)。本人も今年から自分の舞台のプロデュースを始めたりとか、そういうタイミングなので、「それじゃ“残り”を頑張りましょう」ということになりました。あの人は自分の年齢をバンバン言ったりする人なので、「残り少ないから頑張りましょう」なんてね(笑)。自分ができるうちに、という感じですね。
―― もうアルバムが12タイトル配信開始されていて、ファンからの反応も結構きていると思いますが、どんな感じでしょうか。
田村 『Ballad Classics』(1987年12月)がよく話題に出てきます。今はまだIの方しか配信していませんけど。
―― ということは、7月6日配信の『Ballad Classics II』も、きっと楽しみにされている方が多いだろうなと思われますね。
田村 小泉さんという人を作っていく中で、ポップなイメージがあるところを、バラードもいいなと思っているんですが、『Ballad Classics』的なまとめ方をすると、それが見えてくるんですよね。アルバムの収録曲や、シングルのカップリングの中からバラードを集め、いいものを選んだので、「バラード歌手としての小泉今日子」を見せるための企画といっていいですね。
―― バラードというくくりがあるかと思えば、ハウスというくくりのアルバム『KOIZUMI IN THE HOUSE』(1989年5月)もありますね。これはどういうきっかけで?
田村 アルバムの順番でいうと、ハウスの前に『ナツメロ』(1988年12月)があるんですよ。これは、当時小泉さんが「オールナイト・ニッポン」のパーソナリティをやっていたんです。ニッポン放送の資料室というのはどんなレコードでもあるんですね。午前1〜3時という時間帯はスタッフが集まりやすくって、本人が一生懸命しゃべっているガラスの向こうで、スタッフがみんな打ち合わせと称してダベっているんですよ(笑)。で、「あの曲聴きたいね〜」なんていうと、レコード室へ行って出してきて、なんてことができたんで、そんな話をしながら「次、カバーやらない?」という話になって、本人も含めて相談して、できたのが『ナツメロ』です。
そうしたらその中にジューシィ・フルーツの楽曲が2曲入っていて、年末に「次、誰と演ろうか?」という打ち合わせをしていたら、「これはもう近田(春夫)さんだね」、という話になって。それで近田さんと話しに行ったら、「俺、ハウスしか演らないんだよね〜」っていわれちゃって「ハウス……。あ、それでもいいよ〜」で決まっちゃった(笑)。だからやってみた、っていうアルバムです。
ご存じの人も多いかと思うが、近田春夫は日本ロック界の先達の1人にして、さまざまな新しいリズムやムーブメントを取り入れて大きな波を起こしてきた、日本音楽界の偉人である。ジューシィ・フルーツは近田のバックバンドが発展したもので、デビューアルバムは近田がプロデュースを務めていた。
―― 『KOIZUMI IN THE HOUSE』がリリースされた89年当時、ハウスってまだ多くの人に聴かれる音楽ではなかったんじゃないですか。
田村 ムーブメントとしてはね、もうなくなったけれど芝浦インクスティックだとかゴールドとか、あの辺で皆さんライブやったり盛り上がったりしている時代なので、音楽は“時代”のものでもありますから、それで「面白いな」と思って、小泉さんのアルバムでやってみて、面白かったと思うんですけど(笑)。シングルとしてもきちんと成績を残せているので、ご本人のキャラクターを作りながらシングルヒットさせる、ということを両立させていけるのであったらそれはそれで問題ないな、とは思っていました。
それに、80年代の終わり頃といえばもう小泉さんはCM女王なので、「面白いことをやる人」「新しいことをやる人」というイメージがついていたと思うんですよ。それで、こっちとしてはそんなに問題ないな、と。それはいろんな考え方がありますからね、シングルがヒットしていればその線に沿ったアルバムを作った方がいいという考え方だってあるんですが、アーティストを主体に考えるならば、こういうやり方もありだなと思っていました。
―― 小泉今日子という存在は、そういう新しいこともどんどんやっていくような人だと。
田村 そういうことをやっていっても全然違和感がない人だな、という風に見られてるんじゃないかな、と思って作りました、はい。もちろん違うこともあると思うんですけど、1つのアルバムへいろんなことをゴチャゴチャに入れられませんからね。
―― 実は小泉さん自身は取り立ててハウス・ミュージックというものが好きだったわけではなく、そういう音楽の先端を走る人たちと一般の音楽ファンとのハブになれればよいと考えている……というインタビューを読んだのですが、作っていらっしゃる時のスタッフの皆さんもそういうスタンスだったんですか?
田村 ええ、小泉さんは別にハウスにも詳しいわけじゃありませんでしたが、でもライブ・シーンで見ていて「楽しそうだな」という感じがあれば、それで全然かまわなかったんです。例えばそれが「オシャレな人がいて楽しい感じ」でもね。当時は『KOIZUMI IN MOTION』(1998〜92)という東京FMのラジオ番組が始まっていて、そこにはその世代の新しい人がどんどん企画やら選曲やらで入ってくる時代だったんですよ。近田さんがいたり、(藤原)ヒロシ君がいたり、高城(剛)君がいたり、川勝(正幸)さんがいたり。もうそんな時代なので、周りを取り巻く環境としては、自然な流れだったんじゃないかな。
いやはや、1人ずつの詳細な解説は避けるが、ミュージシャンだったり、映像作家だったり、ライターだったりと、ジャンルはそれぞれ違っていても、あの当時ちょっとポップ・ミュージックへ深入りしていた人なら、必ずどこかで彼らの音楽を聴き、映像を見、文章に心浮き立たせてレコード・ショップへ向かったのではないかと思う。まさに日本のポップ・ミュージック黄金期を築く一助となった人たちが、偶然か必然か、小泉今日子の許へ引き寄せられていたのだ。彼女のアルバムが1作ごとに色合いを変え、まさにシーンを牽引する原動力となっていたのは、ある意味で当然だったともいえるだろう。
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