[連載]高橋敦のオーディオ絶対領域
【第184回】この素晴らしい吐息に祝福を!Just ear「Goddess Bless You」で “ブレスだけ” を聴きまくる
椎名林檎さんの曲にはブレスから始まるものが多い。シングルヒット曲からだけでも例えば、「ここでキスして。」「ギブス」「群青日和(東京事変)」「閃光少女(東京事変)」といったところがすぐ思い浮かぶ。
特に印象的なのは「群青日和」「閃光少女」のような疾走感溢れる曲の冒頭での、彼女の声質の鋭さとも相まって、もうそれだけでスピード感のあるブレスだ。「ここでキスして。」のようなテンポ、歌詞も含めた曲調には、あのように大きく吸い込み心を整えるようなブレスが必然だろう。
そして「群青日和」「閃光少女」のような曲にはあの速く鋭いブレスが必然だ。吸うと吐くの違いはあるが、パンチを放つ瞬間の呼気にも似た、その後の動きに沿った自然な呼吸と感じる。
しかしただ自然に任せ、ただ曲のテンポに合わせているだけでもないだろう。テンポに合わせるだけなら選択肢は他にもある。彼女たち歌い手はその選択肢の中からその歌のためのたった一つを選び取っているのだ。
例えば「閃光少女」で椎名林檎さんは、歌い始めのメロディから見て四分音符ほど手前のタイミングからブレスしている。一方「ギブス」では八分音符ほど手前からのブレスだ。
「閃光少女」のテンポはBPM170弱、「ギブス」は77前後あたりなので、前者の四分音符と後者の八分音符は絶対的な時間の長さとしては同じようなものになる。そこだけを見れば単に「彼女にとって歌い始めやすい楽な呼吸のタイミングがその長さなのでは?」と思えるかもしれない。
しかしさらに「ここでキスして。」を見ると、これのテンポは88あたりで「ギブス」とそれほど離れていないが、彼女はこちらの曲では四分音符ほど前のタイミングからのブレスを選択している。ブレスの長さの実時間は「ギブス」の倍ほどになるわけだ。
そんな無粋な計算をしなくても歌を聴けば、そのブレスがゆったりと大きく息を吸う印象であることは明らかだろう。そしてそれこそが、この歌を歌い始めるために相応しいことも。
「ここでキスして。」の歌詞は、切々としたものではあるが追いつめられて余裕のないようなものではない。冒頭のブレスも性急なものとせず、息をしっかりと吸い込んでから歌い始めるのが合っている。
また「ギブス」の方に注目すると、単に音符や時間として短いというだけではなく、短い時間で息を吸わないといけないから自然とそうなるというだけでもなく、意図的なスタッカートのニュアンスも感じられる。ブレスと歌の繋ぎ目にほんの少しの間、切れ目があるように聴こえるのだ。
「ここでキスして。」の歌詞は、「今すぐに此処でキスして。」の「今」「此処」に象徴されるように、危うさは感じさせるが未来を憂うのではなく現在に全てを注ぐという、ある種のポジティブさも含むものだ。
対して「ギブス」の歌詞はというと、「だって写真になっちゃえばあたしが古くなるじゃない」「だって冷めてしまっちゃえば其れすら嘘になるじゃない」のように、満たされた現在が在りながらも、其れを失う未来を見てしまうネガティブさが強い。それを踏まえた上で冒頭のブレス。自ら息を吸うというよりは何かに息を呑む。その短さとスタッカートのニュアンスからそういった様子を感じられないだろうか。
この歌の中の彼女が息を呑んでしまったその何かとは、「幸せの中でいずれそれを失くす瞬間を想像してしまった」からなのかもしれない。そんなことまでも想像させられる。そこまで明確に想像はしないとしても、そういう気配は届けてくる。林檎さんがこの曲で選んだブレスにはそういう力がある。